「しゃべり場」モーツァルトⅠ

平成24年度SOAⅠ期 「しゃべり場」モーツァルトⅠ
      -かなしみはなぜ疾走するのか
                        2012年4月 茂木和行

 何よりもクラシック音楽が好きで、一家言お持ちのあなた、言いたいことがたまっていませんか。ましてモーツァルトとなれば、あなたの口は爆発寸前になるのでは。スイスの哲学者アミエルは、「モーツァルトの音楽はプラトンの対話編のようだ」と言っています。「いや、モーツァルトはね…」と膝を乗り出す「あなた」、のための講座です。
 小林秀雄の名作『モオツァルト』をメインテクストのガイド役にしながら、モーツァルトの音楽を味わい、そして何よりも、モーツァルトとその音楽をさかなに、人生を語り合おうというわけです。

<8回分の予定内容>(鑑賞曲は、皆さんのリクエストを交えながら、自在に展開したいと思います)

1、あなた自身のモーツァルト体験をお聞かせください。

鑑賞曲:交響曲40番ト短調K.550第一楽章、 第四楽章(ウイーン、1788年、32歳)
(指揮 ニコラス・アーノンクール 演奏 ヨーロッパ・チェンバーオーケストラ)

テクスト「大阪の道頓堀で、ト短調シンフォニーが突然頭の中で鳴り響いた」「もう二十年も昔のことを、どういうふうに思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。…」
(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』新潮文庫、pp.12-13)
サブテクスト:井上太郎『モーツァルトと日本人』(平凡社新書、2005年、pp.27-32)
「敗戦直後、私はクラスの親友Iの家にレコードを聴きに行った。彼の家にはレコードが戦火をまぬがれて残っていたのである。ここで再びモーツァルトの40番を聴いた。今度は第一楽章から通して。私は聴いているうちに、かつて味わったことのない感動に引き込まれていった。敗戦でボロボロになった二十歳の私の魂は音楽はやさしく包み込み、その傷の痛みを共にしながら、高みへと導いていく。死と隣り合わせ、かろうじて生きてきた自分と、その音楽の持つ確かな存在感とが、深く響き合って流れて行くのだ。やがて最後のアレグロは暗い虚空を駆け抜けるように消えて行った。
 曲が終わって私は涙を流していた。悲しかったのではない。音楽がこんなにも身近にあることに、どうしようもなく感動したのだ。
『こんな音楽ってないね』
 Iは煙草に火をつけながらポツリと言った。その一言が、二人の気持ちのすべてだった」(同書pp.30-31)

2、あなたはモーツァルトの音楽のどこに惹かれますか? 一番好きな曲はどれでしょうか?

鑑賞曲: 弦楽四重奏曲15 ニ短調 K. 421(ハイドン・セット2)第一楽章(ウイーン、1783、27歳)   (演奏:ハーゲン・カルテット)

サブテクスト:「モーツァルトの音楽はプラトンの対話編のようだ」(アミエル)
「モツァルトは、優美、自由、安易、確かで細やかできっぱりした形式、精緻な貴族的な美しさ、心の朗らかさ、健康、天才の域に達している技両。…モツァルトは美なのだ。モツァルトは、プラトンの対話のように、疲れを癒し、人を尊重し、人に自信を持たせ、自由と均衡を与える」(同書134頁)
「モツァルトは内的な自由である。…モツァルトの作品は全く機智と思想に貫かれて、それが表現するのは、既に解決のついた問題、憧憬と実力の間、能力と義務と欲求の間に見出される均衡、自らを制してそこに現実的なものが理想的なものからもう離れなくなっている嘆美の主権、不思議な調和、完全な統一である」(演奏会でいわゆるハイドン・セット2「ニ短調四重奏曲K.421」を聴いての感想。1856年12月17日)(アミエル『アミエルの日記(一)』(河野与一訳、岩波文庫p.199)

3、あなたは、モーツァルトがどんな人間だと感じていますか。お互いの「人間モーツァルト」観を交換しましょう。そして、どの曲がもっともモーツァルト的だと思いますか。

鑑賞曲:DVD「モーツァルト物語」(解説・デーヴィッド・パーマー)の前半(弦楽のためのセレナーデ<アイネ・クライネ・ナハトムジーク>ト長調K.525第一楽章=ウイーン、1787、31歳=まで)により、モーツァルトとその時代を概観する。

テクスト「仕事に没頭しているときの彼の言行は、あきれるほどの軽薄に見え、ひどいものであった」(義兄のヨゼフ・ランゲ)
サブテクスト:「もうおやすみを言いたい。メリメリと音を立てるほど、花壇にうんこをあいなさい。ぐっすりおやすみなさい、お尻を口まで伸ばして。ぼくはもうベッドへ行って、少し眠ります。あすはまともなことを話し・放し・ましょう。ぼくはあなたに話したいことが山ほどある。とてもそうは思われないでしょう。でもあすはきっとお聞かせします。それまでさようなら、あっ、お尻が痛い、燃えてるようだ! どうしたというのだろう! もしかしたら、うんこが出そうなのかな?―そうだ、そうだ、運子よ、お前だな、見えるぞ、においがするぞー」(『モーツァルトの手紙(上)』柴田治三郎訳、岩波文庫、pp.80-81)

4、あなたはどう思いますか、モーツァルトは神の子なのか、それとも悪魔の申し子なのでしょうか。

鑑賞曲:
① フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299第二楽章(パリ、1778、22歳)
(指揮:ネヴィル・マリナー、フルート:Patrick Gallois、ハープ:Fabrice Pierre、
演奏:Orchestra della Svizzera Italiana)
②交響曲29番イ長調K 201; 第一楽章, Allegro Moderato(ザルツブルク、1774、18歳) (指揮:カール・ベーム、演奏:ウイーン・フィル)
(映画「アマデウス」で、サリエリがモーツァルトの自筆譜を見て、神に選ばれたのは自分ではなくモーツァルトだった、と悟らされるシーンで使われている曲)。

テクスト:「あれは、悪魔が発明した音楽だ」(ゲーテ)
「エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトについて一風変わった考え方をしていたそうである。いかにも美しく、親しみやすく、誰でもまねをしたがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかもしれぬということさえ考えられぬ、元来がそういう仕組みにできあがっている音楽だからだ。はっきり言ってしまえば、人間どもをからかうために、悪魔が発明した音楽だと言うのである。ゲエテは決して冗談を言うつもりではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代にはできぬものだ、と断っている(エッケルマン「ゲエテとの対話―1829」)」(小林秀雄『モオツァルト』p.7)
サブテクスト:エッカーマン『ゲーテとの対話(中)』(山下肇訳、岩波文庫)
     
5、モーツァルトの音楽の“秘密”について、お互い、感じるところを披露し合いませんか。

鑑賞曲:「ピアノ協奏曲17番ト長調K.453」第三楽章(ウイーン、1784、28歳)(指揮・ピアノ レナード・バーンスタイン 演奏 ウイーン・フィル)

テクスト:「奔流のような私の音楽がどこから来るのか、私自身にもわからない」(モーツァルト
サブテクスト:「モーツァルトのなかには音楽のすべてがあるのです。音楽になにかをもとめるとき、かれがそれをあたえてくれないことはまずありません。かれの情緒のパレットのひろさを皆さまに納得していただけるよう、「ハ短調ミサ」や「レクイエム」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「交響曲変ホ長調」など、モーツァルトの音楽をじゅうぶんここで演奏できたらと思います。しかしそれはあきらかに不可能ですので、これから、かれの、偉大なピアノ協奏曲の一つを一部演奏させていただきます。これまでお話してきましたさまざまの特徴が、すべてこのひとつの作品のなかに凝縮されていることをおわかりいただけれと思います。… 18世紀だけが、光と光明と啓蒙の時代だけが、はなちえたきらめきを、この楽章(ピアノ協奏曲17番ト長調K.453」第三楽章)ぜんたいはいっぱいにあびているのです。あかぬけのした、こだわりのない、優雅で、こころよいーこれこそ理性の時代が生んだ完璧な作品です。しかも、そのうえに舞っているのは、さらに偉大なモーツァルトの精神―慈悲と博愛と、受難の精神―時代をこえた、あらゆる時代に普遍化された精神なのです」
(バーンスタイン『バーンスタイン 音楽を語る』岡野弁訳、全音楽譜出版社、p.85-86)

6、あなたは、モーツァルトは天才だと思いますか。天才とは、どのような才能なのでしょうか。たとえば。ベートーベンと比べて、どうですか。

鑑賞曲:
① 歌劇『ドン・ジョバンニ』Commendatore (石像が現れて、ドン・ジョバンニに改心を迫っていく場面) (指揮・フルトベングラー、演奏・ウイーンフィル)
② 同序曲 (指揮・アーノンクール、演奏・ウイーン・フィル)
(ウイーンとプラハ、1787、31歳)

サブテクスト:「偶然が、これほどまでに、天才をいわば裸形にしてみせた事はなかった」(スタンダール『モーツァルト』高橋英郎・冨永昭夫訳、東京創元社)
「哲学的観点から観れば、モーツァルトには、単に多くの卓越した作品の作者というよりもさらに驚嘆すべきものがある。偶然が、これほどまでに一人の天才の魂をいわば裸形にして見せたことはなかった。かつてはモーツァルトと呼ばれ、今日イタリア人が「あの怪物じみた才人」と異名を与えているこの驚くべき存在において、肉体の占める部分は能うるかぎり少なかった」
(同書p.132)
「『ドン・ジュアン』におけるモリエールのまったくロマンティックな想像力…これらすべてはまったくモーツァルトの才能にふさわしいものなのだ。石像の答えにつけた怖ろしい伴奏、あらゆる仰々しさ、あらゆる誇張から全く脱したあの伴奏においてモーツァルトの天才は勝利を収める。これは耳にとってのシェークスピア的な恐怖だ」
(同書p.130)

7、モーツァルトの「かなしみ」について、おおいに議論しましょう。

鑑賞曲:弦楽五重奏曲ト短調K.516 第一楽章アレグロ
(ウイーン、1787、31歳)
(Jascha Heifetz, Israel Baker, Violins William Primrose, Virginia Majewski, Violas Gregor Piatigorsky, Cello)

テクスト:「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する」(小林秀雄)
「それは(モーツァルトのかなしさ)は、およそ次のような音を立てる、アレグロで(ト短調クインテット、K.516)。ゲオンがこれをtristesse allante(注 走り回るかなしみ) と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じをひと言で言われたように思い驚いた(ゲオン『モーツァルトとの散歩』)。確かにモオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない」
(小林秀雄『モオツァルト』p.36)
サブテクスト:「このアレグロで歌っているのはまさにモーツァルト自身であって、彼の喜劇や四重奏曲を満たしている虚構の人物ではない。彼は第一人称の《私》で語りかけ、自分の心を明かしている。…それは迅速に進み、走り、駆けめぐり、ほとんど息をもつかせない。それは純音楽的にわれわれを感動させるメロディ固有の力にひたすら頼っている。それは生命そのものであると同時に、美そのものであり、すすり泣きであると同時に完成美である」
(アンリ・ゲオン『モーツァルトとの散歩』(高橋英朗訳、白水社、p.254)

8、あなたは、モーツァルトの音楽の本質とは、結局のところ何である、と考えますか。

鑑賞曲:
① 魔笛第二幕ト短調アリア "Ach, ich fühl's " (喜びの時は去りぬ)
② 同序曲
(ウイーン、1791、35歳)
(指揮・リカルド・ムーティー、演奏・ウイーン・フィル)

サブテクスト:「(モーツァルトの)魔笛の本質をなすものは、音楽から語り出る自然の高貴さと、その背後にある人間性なのです」
(カルラ・ヘッカー『フルトベングラーとの対話』音楽の友社)
「現今の人間は、つねに何事にも一つの『理念』を必要とします。だがこの曲(魔笛)の理念とはまさしく、何の理念もないということ、あるのはもっと偉大なあるもの、すなわち一つの現実であるということなのです。魔笛こそは、おそらく音楽史の中でもっとも深遠な、もっとも不可解な作品でしょう。…この曲の本質をなすものは、音楽から語り出る自然の高貴さと、その背後にある人間性なのです」(同書p.177)
「(パミーナの歌う)ト短調のアリア(喜びの時は去りぬ)には、安らぎと同時にこの世ならぬ苦悩を表現するために、最も強い魂の集中が要求されています。このアリアをパミーノは歌えねばなりません」(同書p.174)