「哲学」は「てつがく」である

 ホームページに掲載してある拙論文

「哲学はエンターテインメイトになり得るか」

に対して、次のような質問が寄せられました。極めて本質的な問題を含んでおりますので、私の哲学に対する考え方、姿勢をお話ししておきたいと思います。

ご質問(要約)

貴論文「哲学はエンターテインメイトになり得るか」について

「哲学」は本来、人が自明のこととしてゐる全価値、全事実、全存在を根底から疑ひ、自分で考へ抜かうとする孤独な思考の学問ではないか。「真理とは何か」「空間とは何か」「時間とは何か」「なぜ在るのか」「在るとは何か」「それは本当か」などなどの疑念を自分独りで徹底的に問ひ詰めることではないか。それは他人を必要とすることなのか、誰かに語つてもらつて、誰かに考へてもらふことではない、おのれの頭ひとつで世界と対峙するといふ孤独な厳しい作業ではないのか。なぜこれがエンターテインメントになり得るのか・・・・

お答え

このご質問の最大のポイントは、

 「哲学」は本来、人が自明のこととしてゐる全価値、全事実、全存在を根底から疑ひ、自分で考へ抜かうとする孤独な思考の学問ではないか…」

にあると思いますので、これに対して、お答えしたいと思います。
私の立場は、哲学は何よりも

1、 「学(問)ではない」
2、 孤独な思考の作業ではない

というところにあります。

1、 「学(問)ではない」ことについて

 「学」は、たとえば「心理学」(psycho-logy 心の学)、「生物学」(bio-logy 生き物の学)の「logy」からきた翻訳語で、もともとはギリシア語の(logos)」(ロゴス)に由来します。「logos」は論理、理屈から言語、理性にいたるまで幅広い訳語をもつ言葉ですが、もともとは「比」を意味し、割り切れない無理数に対して、割り切れる状態の事を指します。割り切れるとは、一つの鋳型に収められることです。言語は言葉の鋳型に、論理は理屈の鋳型に、といった具合で、わからないことがわかるようになるのも、一つの鋳型化です。
 「人間は理性的な動物である」(アリストテレス)の「理性」はロゴスの翻訳で、「言語的な動物」と訳されることもあります。人間は本能だけで動く動物と違って、その行動には「割り切れる指針がある」と、アリストテレスのこの言葉は言い換えて良いと思います。カントの生きた18世紀が「理性の時代」と呼ばれるのは、すべての人間はこの「割り切れる指針」において平等である、ということに人々が気づき始めたことに由来します。服従の指針に過ぎない絶対王権の「理」は、このあまねく人間に与えられた平等の理である「理性」とは違うことに市民たちが目覚めたのです。
「割り切れる」ということは、すべての人間にとって共通の基準を与えるわけですから、その土台の上に乗ればいかにも平等な社会づくりに貢献しそうな感じがします。その基準に乗れば、誰もが同じ結果・結論が出るのですから、これほど素晴らしいことはありませんね。そして、これが「科学的」であることを示す顔として、さまざまな分野の共通の指標「logy」=「学」となったのです。物理学の公式を正確に反映していれば、誰が作ってもロケットは同じ軌道を描いて、衛星を軌道上に打ち上げ、火星でも木星の小惑星にでも正確に観測機を着陸させることができます。こうして、「科学的」はロゴス現実に働く現実の場であり、人間精神が発露する世界として、誰にも異論のない共通の「ものさし」となったのです。
 いまや、「科学的」であることは、物事の是非を決める錦の御旗のようになり、「非科学的」はその対象が無価値であるかのようにみなされる傾向が当たり前のようになってはいないでしょうか。しかし、どうなのでしょう。人間は、すべからく割り切れる存在なのでしょうか。人間には、無理数のような、割り切れない面があるのではないでしょうか。「わたしはあなたのことがよくわかる」「あなたのいうことは理解できる」と言われて、なんとも複雑な気持ちになったり、あるいはときには不快な気分になることが珍しくないのではないでしょうか。「わかる」ということは、相手を自分の「ものさし」で「割り切る」ということを意味します。それは、相手を自分の「ものさし」でばらばらにして、測り切れない部分を捨ててしまうことにほかなりません。わたしが、「てつがく」(ここは、あえて、平仮名で書きましょう)は「学ではない」ことにこだわるのは、「割り切れない部分」こそ「てつがく」にとって最も大事だと考えるからです。
 明治時代に、確か西周が「philosophy」を「哲学」と訳したことが大きな誤りでした。ギリシア語由来の「philosophy」(フィロソフィー)は「philos」(愛する)と「sophia」(知)を組み合わせた言葉で、「哲学」というよりは「愛知」(知を愛する)の意味です。比に由来する「logos」(ロゴス)が「割り切る」を本位とすれば、愛の本質は逆に差異を「包み込ん」で相手を認める、ことにあります。相手を認めるとは、相手を好きになることであり、アリストテレスの言った「哲学の始まりは「驚き」(タウマゼイン)にある」、とする「驚き」は、その対象の存在が「割り切れない」ことに気づくことに由来するのです。「何で、こんなものが存在するのだ」「いったい、これは何だ」という叫びこそ、私たちを哲学へと導くものなのです。

2、 「孤独な思考の作業ではない」ことについて

 そもそも、「孤独な思考」などというものが存在するのでしょうか。私たちが何かを「考えている」とき、息抜きに空に浮かぶ雲を眺めたり、外から聞こえる賑やかな子どもたちの声にふとほかのことに考えが飛んだり、あるいは、思考に行き詰まれば手元の本(哲学の本もあれば、文学の本もある、料理本かもしれません…)をぺらぺらとめくってみる、モーツァルトの音楽に耳を傾けることもある、などなど、外界との何らかの接触が思考を促す、ことは珍しくないでしょう。そこから得られるわずかな情報の断片が、突然、「ああそうか、あれは、これだったのか」と、思考をクリアな線の上に乗せてくれるものです。
 プラトンが言うように「考えることは、自分自身との対話」でもあります。自分自身の対話とは、記憶に浮かぶ過去の自分の姿や過去の思考の断片との対話であり、未来への希望や憶測との対話です。アウグスティヌスがいみじくも語ったように、未来も過去もすべてが「いま」にある、「私」は瞬間瞬間に変化する「いまの私」の時空連続体であり、考えるとは、その瞬間瞬間に顔を出す「過去から未来」の「記憶だまり」との対話なのです。「記憶だまり」に存在する連続体としての「私」は、言うまでもなく、外界から孤立した「私」ではあり得ません。未来も過去も、そこには常に無数の「他者」(人および私たちを取り巻くすべての環境体=生物・無生物さらには宇宙・芸術…)が存在し、その他者との「交流」が、思考なのです。
 ポテイダイアの戦地で歩哨に立ったソクラテスが、一晩中動かずにじっと沈思黙考していたことを、アルキビアデスが語っていますが(プラトン『饗宴』220-d)、これは決して「孤独な思考」をソクラテスがしていたわけではありません。ソクラテスは、戦地からアテナイに戻ってくると、「ところでみんな、ぼくの留守中、きみたちの愛知の状況はどうだったかね」と聞くのを常としていました。およそソクラテスほど、人々の話に耳を傾け、ともに「てつがく」(愛知)をしていた人はいません。戦地でのソクラテスが一見黙って何かを考えているように見えても、それは大工や左官からプラトンのような弟子たち、さらにはソフィストの面々たちと、心の中で対話を繰り返していたに違いないのです。思考とは、自己と他者とが交差する場に生じるものです。講座「哲学の楽しみ」が、講師である「私」が一方通行で話すだけではなく、皆さんとの対話を重視しているのも、そのときの教室そのものが、思考する場になっているからです。本当の「てつがく」は「孤独な思考」から身を振りほどき、他者との間に生じる「思考の場」へと身を投じることにほかなりません。
 
本来の?正統的な?「哲学」
 
 なるものがいったいどのようなものなのか、私にはわかりません。しかし、ソクラテスの哲学がもし「本来の」「正統的な」哲学だとしたら、ここに述べてきたようにそれはまったく「孤独な思考」とは縁の遠いものです。あえて推測するならば、「学問」という体系に閉じ込めてしまった日本の哲学的伝統が、“孤独な思考こそ本来の哲学”であるかのような錯覚を振り撒いたのかもしれません。「エンターテインメント」という言葉を使ったのも、フィロソフィーの「知」は孤独なものではなく、ごく少数の人間たちが独占するものではない、ということを強調したかったからでもあります。

 ご質問に対して、どこまでお答えになっているかわかりませんが、疑問点がありましたらいつでもお寄せ下さい。このような往復書簡もまた、他者とともに考える最高の場になりますので。

★以下は、この読者との「てつがく」問答のその後の往復問答です。

 「考える」ことにはもう一つ奥があって、アウグスティヌスが言う
「自己よりももっと深い深淵から聞こえてくる声」へとひたすら自身を
振り向ける行為があります。そこに到達すると、あらゆる他者が消滅し、
自らの内に没入する思考が現れます。おっしゃている「孤独な思考」
はたぶん、このことだと思います。おそらく、大哲学者はみなそのような
状態を経て、巨大な哲学の塔を立てているのでしょう。ニーチェはその典型
のような気がします。
 私のようなレベルでは、その深淵を出たり入ったりしている程度で、
何とも恥ずかしき限りです。

読者

 アウグスティヌスが言う行為には生涯到達することはとても望めませんが、今暁
寝床で、あっ、と閃いたことがありました。
(滅多にないことだけど)自分が深く考へているとき、おのれの頭の中で「知」が
唸りを起てて回転する様、音、を感じ、聴く、これは快感ものであると。
これは(自分なりの)「知のエンターテインメント」ではないかと。
これは(自分なりの)「愛知」ではないかと。
ん?これはナルチシズムにすぎないか。あはは。