哲学カフェ」第一回

「路地性」に開く「異界」への入り口

 若き哲学研究者・田村さんの力を借りて始まった市川市のアトリエ*ローゼンホルツでの第一回「哲学カフェ」(2014.9.11)は、ときに雷鳴の轟く大雨の中で行われました。かつて風呂屋だった風情ある日本家屋では、おりから、地元の写真家 加賀谷はじめさんの写真展「路地からの旅」が開かれており、市川のさまざまな路地の写真を背景にしながら、路地をテーマとした”哲学談義”を楽しんだのです。

哲学カフェ風景

 
配布資料

路地考「日常性の深みへ向かって」

を下地としながら、「哲学カフェ」は次のように進んでいきました。

 路地の「路」は、白川静さんの『字通』や『字統』(ともに平凡社)によれば、神が降りてくる道だそうです。生活の場としての日常性と聖なる神の場がつながっているところが、路地なのかもしれません。

 ご紹介した『京都の路地裏図鑑』にある、いろいろな方々の「名言」をいくつかご紹介しましょう(「路地裏の名言、否、謎言」pp.40-41)。

「路地というのは、表通りという現実から、非現実へアプローチするための場所なんです」(京料理店主)
「まあ路地が毛細血管だとすると、鉄道やハイウエイなんかは、動脈だね。人間は、いったん動脈に乗っちゃうと、物流のブツになるんだよ」(田村隆一 詩人)
「いろんな街の路地裏には、さまざまな人生の味気がしみこんでいる」(手塚治虫 漫画家)

 それぞれがとても味わい深いものです。添付資料の永井荷風が『墨東奇談』で触れている路地から入り込む風の話も興味深いですが、わたしには残念ながら本日欠席のある主婦の方がメールで送ってくれた一文「私の思い出の路地を綴ってみました」に、心をそそられます。

“路地”懐かしい気持ちが呼び起こされる場所です。
家と家との間の狭い路。
「寄り道をしないで帰りなさい」
先生の言葉を思い出しながらも、“この道は何処に繋がっているのだろう?”
そんな冒険心に負けて寄り道をした小学生の頃。
路地は夕暮れ時になると煮炊きをする煙や匂いがして、帰り時を知らせてくれる。
花の鉢が並んでいて、水遣りの跡がある。
夕涼 みをしている人や体操をしている人もいる。
縄跳びや石蹴りをして遊んでいる子供もいる。
将棋や碁をしている人もいる。
猫が我が物顔で歩いている。
これらは、ある生活のほんの一場面に過ぎません。
ただ異なる顔の路地も、人の生活の近くにある路であり、人と深く関わりを持つ路であるように思います。

 あるひとときの路地の風景が、匂いや音を伴って、目の前に浮かんでくる気がします。この生活感覚が何とも言えず素敵ですね。

 続いて、写真展「路地からの旅」を開いている加賀谷はじめさん(上記写真右から二人目)が、写真の説明をしながら路地にかける想いを次のように語ってくれました(このまとめ 田村さん)。

 路地を歩いていると、忙しい日常とは違い、ゆったりと時間が流れていく。路地の時間は日常とは異なっている。路地とは、家と家の間の細い道である。かつては家と家の間に壁はなく、玄関がすぐ道に面していた。現在では多くの場合壁で敷地が区切られている。ご近所付き合いの在り方も変化しているのだろう。路地はそもそもは舗装されていない「露地」であったが、現代ではそれも多くの場合舗装され、そのままで残っている場所は少ない。古く美しいものが時代の流れとともに失われていっている。

 路地に立っている昔ながらの鉄筋コンクリート製の防犯灯には、時間の積み重ねによって培われた美しい質感がある。雨に洗われてコンクリの中の石が見えてくれば、それが独特の美しさを持つ。しかし現在、古い鉄筋コンクリート製の防犯灯がどんどん取り壊され、その代わりに立てられる電灯は無個性で簡素な鉄パイプ製が主流になってしまった。そこにかつてのような美しさはない。

 現代において路地はどんどん少なくなっている。法律が変わって、幅4メートル以上の道に接していないと家が建てられなくなってしまった。現在、路地の中に存在している家も、(リフォームはともかく)建て直す場合には、「セットバック」といい、接している道の幅が4メートル以上になるように敷地の一部を市に明け渡さないといけない。したがって、路地はいずれ消滅してしまう運命にある。明日にはなくなってしまっているかもしれない、路地の美しい景観を記録に残したいという気持ちで、路地の写真を撮り始めました。

 呼応して、ボランティア活動「葛飾探検団」で路地を歩き、大正から昭和の消えゆく町の記録をアーカイブしている方が、葛飾区内で41件に減ってしまったお風呂屋さんにまつわる話を紹介してくれます。続いて、農協や生協などの協同組合を研究している社会科学者の人が、「ちょっと飛んでしまって恐縮ですが」と断りながら、「路地には妖怪は出ませんかね」と、ユニークな質問を投げかけます。江戸川乱歩の明智小五郎話に登場する青銅仮面や横溝正史の八つ墓村のことを熱を込めて話をする彼にとって路地は、妖怪のようなおどろおどろしい何かを連想させる場のようです。

 隣の人が、学生時代に下宿していた成城の街で散歩している横溝正史を見たことがある、近くに映画の撮影所があり窓の下の通りで刑事もののおっかけ劇を撮影するのが見えた、と話を引き取ると、「横溝正史はどんな風情でしたか」と座が盛り上がっていきます。

 黒塀や路地の端にポツンとたたずむ道祖神…それぞれの記憶に残る路地の風景が、想いを込めて紹介されていきました。永井荷風が『墨東奇談』で描いている玉の井の路地は、路地ではない、と一人の方が、子どものころに住んでいた下町の風景を話しながら、興味深い視点を提供してくれます。

「大通りがあって、その裏の通りがあり、路地はさらにその奥にあって、職人たちの仕事場やときにはお妾さんの家があり…、そこを子どもたちが駆け回っている、といった風情のところです。商店がないのがむしろ特徴なのです」

 千葉で生まれ育った若き哲学研究者・田村さんは、千葉県では都市部を離れると家と家の間が離れていて、路地のようなものはなかった、それでも、写真で見る路地から、郷愁のようなものが感じられるのはなぜだろう、と問いかけました。長野の田舎で育った主婦は、やはり路地のようなものはなく、こどもたちは砂利道で石を使って観音さまを形作る遊びに興じた思い出を語ってくれました。

 皆さんの話から、路地には「異界への入り口」が存在していて、見えない何かを人々に見させる力がある、そんなことを感じました。両側に狭い塀や人家がなくても子どもたちがそこに路地のような時空間を感じているとすれば、路地は「路地性」なるものが明確に刻印されたある種の「象徴空間」、と考えたほうが正解のような気がします。
 そこに踏み込めば、一歩先の哲学談義へと進んでいけるでしょう。
 
 アフター「哲学カフェ」では、食事をしながらちょっとした「哲学って何」談義に花が咲きました。

 「哲学は降臨術と同じだ、と言った哲学者がいたように思うけれど、どうですか」「同窓会で哲学をやっていると話したある大哲学者が、君は忍術が好きだったからね、と言われたことを苦笑しながら書いています。哲学者には煙に巻く、ということがありますね」「煙に巻くとはどういうことですか」「根拠がないのに、根拠があるように見せること、といったらいいでしょうか」。すると田村さんから「哲学者が根拠なしで話をするというのは少し言いすぎではないですか」とおしかりの声です。

 田村さんは結論として「哲学とは、究極的には、善く生きることを追究することに尽きるのではないでしょうか」と答えてくれました。これこそはまさにソクラテスが日々探求し、問いかけ、実践してきたものです。それを聞いた30代の若き主婦が「楽しく生きることですね」と言います。さて、「善く生きる」と「楽しく生きる」はどう違うのでしょうか。この二つが大いに違うことを、さまざまな場面で語っていたのがソクラテスでした。

 いずれ、その話もいたしましょう。

 貴重な機会と場を提供してくれたアトリエ*ローゼンホルツさん、ありがとうございます。この初めての試みに参加してくれた加賀谷はじめさんと12人の地域の皆さん、ありがとうございます。本当に楽しい時間でした。もっと多くの方々のご発言を紹介したかったのですが、わたしの記憶空間の極小性に免じて、不十分・不完全さにどうかご寛容ください。
 
 ローゼンホルツさんのご好意で、これからも哲学カフェを続けることになりそうです。いろいろなテーマをご用意しますので、多くのみなさんのご参加をお待ちしています。それそのものが哲学の大問題である「哲学とはなにか」の問いは、そのたびごとに質問者に合わせた切り口でできるだけお話しさせていただきます。どうぞ、楽しみにお待ちください。

哲学カフェ」連絡先
❤アトリエ*ローゼンホルツ
http://lovechiba.jp/blog/rosenholz/rosenholz/
272-0826 市川市真間2-2-12
連絡先 090-808-8911
店主 佐藤真理さん
(京成本線市川真間駅から徒歩6分、JR市川駅から徒歩12分)