「響き合う議論」続き 哲学とは何か、を問う

 お一人が、朝倉友海著『「東アジアに哲学はない」のか』(岩波現代全書、2014.6)から、デリダの言明「中国には哲学はなく、思想しかない」(同書冒頭Ⅴ頁)を紹介したことから、哲学と思想の違いをめぐる議論へと発展しました。
「思想は、時代を反映した考え方だと思う。時代によって、違った思想が出てくる」とお一人。
「例えば、マルクスは思想ですか」(私)。
「かつて、広松渉がマルクスのことに触れ、彼の考え方はあの時代だから通用したが、いまでは古くなってしまっている、と話したのを思い出しました」と別のお一人

 思想は、英語ではidea あるいは thought の訳語です。そのままだと、考え、考えたこと、考え方、となります。理念としての思想に、ideologyがあります。これは、民族や政党などの集団に特徴的にみられる思考様式、と説明されます(『ジーニアス英和大辞典』)集団を一定の行動に駆り立てる思考様式、といえばいいでしょう。お一人が「思想はやらなきゃいけないという気持ちになってしまう」と言いましたが、私たちは言葉「思想」にイデオロギー性を感じてしまうようです。

 「手塚治虫の『火の鳥』に対して、梅原猛が『この作品には哲学的思想を感じる』と言ったことを思い出します」とは、どなたの発言だったのか、この場合の思想は「考え方」で十分なのではないでしょうか。一方、ある方は「漢詩に哲学を感じる」と言いました。『火の鳥』が哲学的であり、漢詩も哲学性がある、とすれば、私たちはようやく「哲学とは何なのだろうか」という本格的な問いに投げ込まれることになります。不思議なことに、「思想的哲学」などという表現はなく、「漢詩に思想を感じる」もない、と私たちは簡単に了解できてしまいます。ここに、哲学と思想の違いを区別する明確な境界があるのではないでしょうか。

 『「東アジアに哲学はない」のか』には、丸山真男が日本に哲学がないことの理由として、日本にはディアレクティケの伝統がない、ことをあげていることが紹介されています(同書pp.37-39)。ディアレクティケとは英語のダイアログ、すなわち「問答」や「対話」を意味します。これはソクラテスの「問答法」に始まるもので、プラトンは私たちの「考える」行為も「内的な対話」であると、位置づけました。「私の心」の中で、あたかも二人の私の間で対話が行われるような状態が「考える」ことだと言うのです。

 ソクラテスの問答法を発展させたのがヘーゲルの「弁証法」です。「美とは何か」「善とは何か」を問い続けたソクラテスの問答法は、簡単に言えば、美がAでなければ、Cではないか、と相手に言わせ、そのCも実は違うことを示し、次にDをあげさせ、と次々と否定しながら、絞り込んでいく方法です。これは矛盾が新しい道を指し示す(これが止揚です)ヘーゲルの弁証法に通じるもので、このようにして世界は発展していくとヘーゲルは考えたのです。

 このように、西洋哲学の道は、絶えずそれまでの哲学的考え方に対するある種の批判的乗り越えによって発展してきました。ソクラテスは「人間は万物の尺度である」のプロタゴラスに象徴されるソフィスト型相対主義に対し、絶対的な価値「徳」の存在を主張し、自己をひたすら律することを説きました。プラトンは、私たちの存在は影のようなものであり、絶対的な価値を天上のイデアに求めました。アリストテレスは逆に、真に存在するものを個々の「個物」の「ウーシアοὐσία」(地主にとって土地、貴族にとっては家柄がウーシア、と言われるように、そのものをそのものにするものを指し、実体と訳される。後に、本質essence、あるいは主語substance、へと転換。月光仮面の実体は「正義の味方」)に求め、天ではなく地上へと存在を引き戻したのです。

 その後も、デカルトは「われ思う、故にわれ有り」で、存在の根拠を私たち一人一人の個人にあることを明確にし、「世界が我々を含むのではない。我々が世界を含むのである」との唯心論を提起したカントは、彼自身の“発見”をコペルニクス的転換と自負したものでした。このような、前者の乗り越えによって発展してきた西洋哲学に比べると、中国の老子や荘子、あるいは孔子の“考えたこと”は、対立軸によって発展されることはありませんでした。それぞれが完結し、すでにまとまっているのです。「中国には哲学はなく、思想しかない」とデリダが言い、「日本に哲学はない」と丸山真男が言うのも、ごく自然な発想なのかもしれません。

 しかし、デリダや丸山真男の言葉を引用して、日本や中国における「哲学の有無」を議論したり、論理的であるかないかで哲学を規定したりすることに、意味があるとは思いません。なぜなら、こうした議論には、そもそも「哲学とは何か」の問いが欠けているからです。思想がせいぜいのところ「考え」「考え方」に過ぎないとすれば、哲学とはいかなる特徴をもった「考え」あるいは「考え方」なのでしょうか。哲学が単なる「考え」や「考え方」ではないことは、すでにあげた『火の鳥』や漢詩の哲学性で私たちは確認したところです。

 ようやく私たちは、お一人が「これもまた一つのアイデアに過ぎないのではないか」と提起した、デカルトの「われ思う、故にわれ有り」やパスカルの「人間は考える葦である」、あるいはニーチェの「永劫回帰」が、単なる「考え」や「考え方」ではなく、まさしく一つの哲学的な言辞ではないのか、を問える位置に来たと思うのです。哲学者の名言が、哲学的な言辞である、とされてきたのは、何をもっての故なのか、手塚治虫の『火の鳥』や漢詩の何が哲学性を感じさせているのか、皆さんに議論していただきたいのです。さらに、老子の教え「三から万物」や、荘子の「無為自然」、さらには仏教の「色即是空、空即是色」に哲学性があるのかどうか、それも問うことにいたしましょう。

 アリストテレスが「人間は生まれついて、知ることを欲する」と言い、「愛知」(フィロソフィア)が哲学の始まりである、と述べたことは前回お話ししました。しかし、この由来を知ったところで、「哲学とは何か」の疑問は解けないのではないでしょうか。まずは皆さんが、いかなる「こと」、いかなる「もの」に哲学を感じるのか、そのことから始めたいと思います。
 ディズニーの次回作で、死んだ兄に対する主人公の感情をどう表現していくかで立ち止まっていた作成現場の空気が、総合プロデューサーの一言「死者は私たちの一部として生き続けているのではないか。その視点がこれまでの話には欠けていたと思う」によって、ガラリと解決に向かいました。この言葉は、十分に哲学的だと私は思うのですが、いかがでしょうか。