「AIの哲学 人工知能 VS 自然知能」への雑記帳

                              草野又郎
1、ソクラテスの問い「あんた、いったい、何なのさ」

 レジメに「(ソクラテスは)「あなたは何者ですか」つまり「何をしている人ですか」と問い質したのです。」とあります。
(英語での)「Who are you?」は遠い遠い昔から問はれてゐたのでせう。
モーゼがシナイ山で「あなたは誰ですか」と問ふと、ヤハウェは「我は在りて在るもの」と答へます。(旧約「出エジプト記」)

 パウロがダマスカスの近くで「あなたはどなたですか」と問ふと、イエスは「私は、あなたに迫害されている、イエスである」と答へます。(新約「使徒行伝」)
天地創造のヤハウェは威厳に満ちてゐますが、イエスは嫌味たらしい返事ですね。
ニーチェがキリスト教をルサンチマンの宗教としたのがこのへんにも表れてゐるのかもしれませんね。

 (一転して)セルジオ・レオーネ監督の『ウェスタン』では、ヘンリー・フォンダがチャールス・ブロンソンに「Who are you?」(お前は何者なのだ)と問ひつづける映画でした。クリント・イーストウッド監督・主演の『荒野のストレンジャー』も「who are you?」で終はります(もつとも西部劇では定番かもしれませんが)。

 「who are you?」とくれば「Who am I?」です。
「私は誰?」「私は何者?」「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ 行くのか」(ゴーギャン)と生涯問ひつづけるのが(これまた一転して)禅の謂ふ「己事究明」なのでせうね。私は禅者やゴーギャンのやうに真剣に自分に問ふたことがないのではないか、

 恥づかしながら・・・・・。禅者は死の床で初めて究明できるのでせうか。
私は禅宗派であるに拘はらず、小難しいことを考へる前に浄土から阿弥陀様が迎へに来てくれればそれでよし、と。

 ところで、江戸時代の「士農工商」制度は、「あなたは誰?」とか「私は何者?」とかの問ひは表面上は必要ないですね。相手の容姿、仕草、言葉遣ひなどで一見して分かるし、自分も分かり切つてゐる。この制度が無くなることにより、名刺が生まれ、私小説が出て来た、との説があります。
(またまた一転して)さういへば、以前、NHKで「私は誰でしょう」といふ人気番組がありましたね。よく聴いたものです。

2、ディープラーニングごっこ、しませんか

 AIは既にその分野の人たちや学者らによっていろいろ論議されてゐるやうです。
「AI」(人工知能)は、「Artificial Intelligence」の略語とのことですが、この日本語にしろ英語にしろ言葉の風景としては味気ないものを感じてしまひます。この際、中身も思い切り変へて、つまり、知性ではなく、また人工でもなく、ただ霊感の如きものによつて物ごとを計る、なんてことを想ふだけで世の中、面白く楽しくなつてきさうです(半分真面目です)。

 いはゆる「AI」は、「Anti-Inspiration」なのでせうが、「According (to) Inspiration」(霊感によつて)(英語に弱い私が勝手に造つた)の「AI」にすると俄然色気が出てきさうです(半分冗談です)。「科学は色気ではない」と怒られてしまひさうですが、「数学は芸術だ」と叫んだ高名な数学者もゐることだし、アインシュタインも同じやうなこと言つたとのことです。

 知性だ、知能だ、と叫んでも、世の中それだけで計られるものではないと思ひます。それらに頼り過ぎると在るものが見えなくなることがある。世の中は矛盾に満ちてゐるものだし、人智の及ばないものごとがいつぱいあるし(だからこそAIなのだ、と直ぐ反論する理屈もあるが)、まして(人間が過去に造つた結果、データを基に拠るものだけでの)未来は分からないし、分からないからこそ希望が生れ、世の中面白くも楽しくもなるといふものではないでせうか。まあ、AIはスマホみたいに便利なものだ、とのシンプルな考へで進めてゆけばいいのではないでせうか(これはかなり真面目です)。

3、AI君、君はフェルメールの贋作家になれるかな

 前回のレジメに、犯人の似顔絵作りの話がありましたが、似顔絵も全くの真実(本物)とは言へない点で一種の贋作と言へさうです。

 今回は犯人の似顔絵ならぬ或る店に来たお客の写真についてです。写真は「真を写す」とのことで、少なくとも似顔絵よりは真(本物)に近いと考へていいと思ひます(なぜか運転免許証の写真は、近いとは言へさうもありませんが)。
以下、仲真紀子都立大学人文学部心理教育学科助教授(当時)の話です。ご参考まで。

 ある店にお客に買い物をしてもらつて、店員さんが客の顔をどのくらい覚えてゐるかを多数の写真の中から実際の買い物客の写真を選んでもらつたところ、正解だつたのはわずか9%だつた。すごく自信をもつてゐたのに、外れた人もゐたとのこと。ところが事前にその客の性別とか年齢、眼鏡をかけてゐたかなど12項目の質問に対しては正解率は43%だつたとのこと。

 写真の場合はガックリ下がる。写真による顔の確認は選びやすいけど、正解が得にくいと言ふ。「それも、写真を選んだ後のほうが自信が強くなるんですよ。自分の行った行為の責任をとりたいというような意識も働くかもしれません」と。分かつたことは、正解者は客にどのくらい特異な印象をもつたか、ということだ、と。

「正解者は客にどのくらい特異な印象をもつたかといふこと」となると、(正解者でかつ絵の得意な)店員に客の似顔絵を描かせたはうが(似顔絵は写真よりもやや誇張して描かれるであらうから)印象が強く反映されてゐて正解率が高くなるかもしれませんね。かうなると手作りの絵のはうが写真より真(本物)に近いといふことになりますね。

 「AI」も、前回に述べた「According (to) Inspiration」、いや、「According (to)Impression」となるかしれません。

4 AI君、君はノーベル賞を取れるかな  4´AI君、君は新聞記者になれるか?

 ノーベル賞受賞の吉野彰さんは、「将来の予測する上で重要になるのは」、(1)過去数十年という短いスパンで人類の歴史を眺めて、過去から現在までの変化をたどってみること。(2)過去 1,000年~2,000年という長いスパンで人類の歴史を捉え、大きな流れをつかむこと」、と発言したとのことです。

 この「将来の予測」は主に技術の予測なのか、政治・経済の予測なのか、文化・文明なのか、人類そのものなのか、よく判りませんが、直前文に「IT革命で、時代はめまぐるしく動いている」とありますので、ITに特化した分野と想はれますが、この分野ですと私は全く話にならない勉強不足で残念ながら知識も智慧も持ち合はせてゐません。

 政治・経済の分野で考へますと、(1)の過去数十年どころか、ここ数年で世界は大きく変化したと言へさうです。米国の自国第一主義、中国の軍事・経済の台頭、欧州の混乱、移民問題など新たな動きが台頭しました。日本に関しては、この30年つまり平成の時代は、バブル崩壊・デフレ、大地震・原発・水害など災害多発などで明るくない時代過ごしました。世界は「この数十年とこの数年のあひだ」には大きな断絶が表れたと思ひます。これからの「数十年」は「数年~十年」毎の変化に翻弄されるかもしれませんね。

 文化・文明、もしくは人類(大げさだけど)の分野で考へますと、これは吉野さん仰るとほり、(2)の長いスパンで捉へるのが王道であると考へます。民族、宗教、地理・文化などによる変化はさうさう起るものではありませんし、変はらないからこそ民族であり、宗教であり、文化なのでせう。それらは歴史に一貫して底に流れてゐるものだと思ひます。戦争もテロも殺人も貧乏も、そしていじめもなくなりません。世界はさう動いてきたし、これからもさう動いてゆくことでせう。残念ながら。

ここで、追ひ書きです。

 ここ数十年のインターネットの普及は情報の膨大化の反面、人は考へなくなり、心地よい情報に溺れ、物事を真剣に捉へず、人間を怠惰にしてきたやうに感じます。怠惰な人間をAIが救つてくれるといいのですが。
 現今の日韓の問題は(1)でもなければ(2)でもなく、ここ70年の問題で、朝鮮の反日は強弱はあるにせよ政権が変はらうとも彼らの「恨(ハン)」は民族の性格で変はりやうもありません。今の反日運動は集団ヒステリー、悪しき集団ナルシシズム、いや、強固なナショナリズムと名づけてもいいのではないか。敵を作ることで自国の負ひ目を発散しようとしてゐるのでせう。

 一方、一般的に、過去に自分が受けた痛みは強く感じ、他に与へた痛みはあまり強くは感じず、すぐ忘れてしまふことも付記せねばなりますまい。かういふ問題の解決をAIに任せることは出来るのでせうか。

 さて、ここで本題のAIに入ります(といつてすぐ出ますが)。

 私がAI君に問ひたいのは「君は『哲学する』か?」です。
哲学することが出来れば、いづれ人間を超えて限りなく神に近づくのではないでせうか。

5、AI君、君はカントになれるかな?

 「(デカルトの)理性万能観に異議を申し立て、理性の及ぶ限界を「批判哲学」の名で提示したのがカントなのです」とあります。併せて以前、「物自体」や「コペルニクス的転回」について先生から教へていただきました。難しくて(当然のことながら)今でも理解しきれませんが、今回、エクスキュルの「環世界」に出会ひ、再びカントが頭によぎつてきました。

 エクスキュルは「感覚による制限によって個々に異なる「認識の限界」の中で生物は生きている」のだ、とのことで、当然、人間も視覚、聴覚、嗅覚など他の生物とは明らかに違ふ認識で世界に生きてゐるのでせう。といふことは、あらゆる生物にとつて「ズバリ、ナマの自然」なんて知覚出来ない、存在しない、といふことになりますよね。

 これはカントの「コペルニクス的転回」の「われわれの認識は対象に依拠する」から「対象は人間の認識によつて決まる」との考へとどう関連するのか気になりました。

 といふのは、私は数年前に白内障の手術を受けましたが、それ以降おほげさに云へば世界がまるで違つて見えてきました。木々は単なる緑の塊りではないんだ、枝や葉つぱの集まりなんだと、お月様が数個重なつて在るのではなく一つなんだと冗談も出るくらゐでした。
 人間は目、耳、鼻などに医学的作用を施したり、眼鏡をかけたり、補聴器を着けたりの外部機器を利用して知覚・感覚を変化させることが出来ますね。望遠鏡や顕微鏡などによつて今迄見えなかつたものも見えるやうになつた。

 また、外部の作用や利用することなしに、自らの意志や感受性で世の見え方が違つてくるものと思ひますし、政界や財界、棋界などの各界やスポーツ界にしろトップに立つと、いままで見えなかつた世界が見えてくる、とはよく言はれることですね。もつと身近に、社会人になつた、子供を授かつたときなどに出会ふ感覚も同じでせう。人との出会ひ、本との出会い、絵画・音楽など芸術との出会ひが人間を大きく変へることがあるでせう。

 いつものやうにたぶん本論とはズレるのでせうが、本質と現象、イデアと仮象、事実とイメージ、などとどう関連するのか考へてみたいところです。

6、AI君、君は類人猿ボノボに勝てるかな?
7、モーツァルトのムクドリ×電脳生物

 6項で、先生のお話の類人猿ボノボと、7項で、モーツアルトのムクドリ及び受講生のお一人から犬とセキセイインコが出てきました。今回は6,7項に関連してオウムの話です。

 神経行動学や音声・言語医学の専門の森浩一氏によると、米国のアリゾナ大学には、ほんとうに人間と話すことのできるオウム(ヨウムという種類のオウム)がゐて、2~3語で構成された文章で簡単な会話が出来る。語彙は100語にのぼり、人間で言えば、三歳児に近い文法力で、他に訓練中のオウム同士が英語で会話することさへあるとのことです。

 物の色、材質、形の違ひを見分けて言葉で表現もする。例へば、学生が「これは何?」(What toy?)に、「鍵」(Key),「どこが違うの?」(What´s different?)に,「色」(Color)と答へる。石を見せると「岩」(rock)と、正方形を「四角」(four corner)。「O」と「R」を並べて見せると,単語の「or」として発音するといふ。

 森氏は「(このオウムの言語は)オウム返しではない。人間のしぐさや質問の与えられ方に対する条件反応的な応答でもない。チンパンジーやイルカに匹敵する判断力をもち、言語を自発的に使っている」と述べてゐます。ご参考まで。
(注。以上は1997年当時の情報なので、今ではもつと進化してゐるものと思ひます)

 上記のボノボにせよ、ムクドリ、犬、インコ、オウムにせよ、私にとつては驚異的なお話ですが、さういへば、我が家の猫もそれなりの応答があつたり、わざわざ知らんふりしたり、家族に邪魔したりして、ヘンなところで智慧があつた(だが、上記のお話の犬やインコなどとは、それこそお話にならないほどのバカ、アホ、トンマだつた)。

 現今の多くの大学生の知的レベルは小中学生並みでしかない、との嘆かはしい話を聞くにつけ、上記の類人猿や動物たちの脳力にほとほと感心してしまひます。

<参考> 5、死のシンギュラリティー(2018年5月22日)については 、前々回の「哲学ゲーム」での私の感想(文)? を再掲させていただきます。
「死のシンギュラリティー」。「不死の状態を得た「私」とはいかなる存在か?」。

 私の読んだ限りでのフロイトにはかういふ前提での問題意識はなかつたやうですが、このときの、彼の謂ふ生の欲動「エロス」と死の欲動「タナトス」はどうなつてしまふのでせうか。興味あります。不死の私のとき、哲学者は?宗教家は?科学者は?・・・・・・私は何も考へえない?分からないことは分からないままにそつとしておく?、或ひは切り捨ててゆく?、なるやうにしかならない?、それとも
「AI」に任せる?

 杞憂としたいものです。

8、シンギュラリティーは幻か

 ホーキング博士は「AIは独自に活動し始めどんどんペースをあげながら自己改良していくでしょう。緩慢な生物学的進化に制限されるヒトはそれと競争できず、地位を取って代わられる」と言つてゐたらしい。また、カーツワイルによると、「2045年にはコンピュータの進化によつてAIが人間の脳力を完全に凌駕するらしい」「神に近づく」とも。

 たしかにグノーシス主義ですね。本当かしら。

 ホーキングにしろカールツワイスにしろ、AIの「進化」や「自己改良」は、いはゆる「転生」の一類型である「リインカーネーション(人間は転生を繰り返すことにより成長し神に近くなる)」に似たやうなものですね。

 「転生」といへば、我が家の猫には「(元の世は)侍従大納言の姫君におはするな」(注)とか、お隣の猫には「建礼門院右京太夫とお見受け申す」ともち上げたりしてゐましたよ。

 (この猫のかたはらに来て『おのれは、侍従の大納言殿の御むすめの、かくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと』)(更級日記)

 ここで素朴な疑問ですが、「AIは「直感」するのか?」。AIは将棋で、プロの棋士では想像できない奇抜な手を指すときがある、といふが、論理のうへでの手なのか、それこそ「直感」によるものなのか。将棋には「美しい手」とか「品のある手」とかの言葉があるが、さういふ「手」が指せるのだらうか。
人間の側の「深い情緒」、「美的感受性」「あはれ」「をかし」などの「情念」はあるのか。

 また、AIに「葛藤」、「ためらいと挫折」があるのか(「まぐれ」はないのでせうね?)。AI=合理的、効率的なのでせうが、「非合理の美しさ」とか「非効率の豊かさ、深み、ゆとり」などはどうなのでせう。

 ところで、「死のシンギュラリティー」が有るのかが無いのかは、人間は本当に物質に還元できるのか出来ないのかをはつきりせねば判定できないでせうし、それより先に物質から何故こころが生まれるのかを解明するのが先決かもしれませんね。先生仰るやうに、「いのちとは何か」の哲学的な課題となりますね。

 某学者が「AIには本能がないんですよ。生存本能もない。死の概念もない。死の概念がないと本当の喜びはないと主張する哲学者もいて、AIはこの点で人間と根本的な違いがあるわけです。それが、人間の行動とAIの行動にどんな違いをうむのか。正直、今のAI研究ではまだわかりません。AIって突き詰めると哲学になるんです。人とは何かという問いが常にある」と述べてゐました。(ご参考まで)

 先生の、来春の講座『いのちとは何か』が楽しみです。

9、AI君、きみは仏になれるかな

 高台寺の後藤典夫住職は「(この)2,000年、仏像にそれほど根本的な進化がありませんでした。そこで私たちは、動き、語りかける現代の仏像としてアンドロイドに変身していただこうと考えました」と語つたさうです。
 仏像の「進化」とは何のことなのか私にはわかりません。「動き、語りかけ」「アンドロイドに変身」させることが「進化」することなのか。

 一尊一尊の仏像には、それを造りそれを造らせた時代に生きた人たちの心が表はされてゐるものと思ふ。我われはその心の意味を感じ、背景を想ひ、拝するのではないのか。仏像と対面するといふことは、仏像の背後にある精神と我々の魂が静かに密かにぶつかり合ふといふことではないか。なぜ、仏像がアンドロイドに変身し、動き、言葉を口に出さねばならないのか。現代の或る人たちはなぜそれを求めるのか。

 飛鳥時代の仏像にはその時代の、平安時代の仏像にはその時代の、鎌倉時代の仏像にはその時代の精神が表れると同じく、現代の精神が求めてゐるのがアンドロイド観音といふのであらうか。このロボットに携はつた人たちは、信心とは、救済とは、なにより宗教と仏像との繋がりは何なのか、と一度でも真剣に考へたことがあつたのか。そしてこれがなぜ「進化」なのか、退化どころか頽廃ではないのか。一部宗教人の尖がつた人寄せパンダ的発想でないことを願ひたいものです。しかも高台寺は臨済宗寺院と聞く。私も同派の一人であるが、もう勘弁してよ、いいかげんしろ、冗談ぢやないよ、と。なによりロボットが説法するなぞ生理的に嫌悪感を覚えますよ。

 ところで、小川講師は、「仏教にまつわる膨大なデータを、たとえばこれまでの経典をすべて入力して、人間との対話の学習を重ねた暁には、現実の人の悩みを聞いて答えることができるAI観音が実現するのでしょうか?」との質問に、「かなり困難だと思います。なぜなら、経典のテキストを入力したとしても、概念の理解には到達しないからです」と答へたやうです。これは明らかに人間を超えるシンギュラリティーは無いといふことですね。

 私もさう思ひます。でも、でもですねえ、未来については、いつも我われ人間の予想を凌駕するものだと想ひますよ。産業革命以来いままでの科学文明の歴史がさうぢやないですか。「神のみぞ知る」といふことなのでせうか。ひよつとしてAIが神に成るのでせうか。

 私には分かりません。

10、AI君、君は死を用意されたいのか

 映画『ブレードランナー』は「寿命が4年に制限されるようになり」「死を知ってしまった「半人間」レプリカントの悲しみ」を描いてゐるとのことです。
古代メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』では、親友エンキデュの死に衝撃を受けた「半神半人」のギルガメッシュが、自分もやがて同じ運命に陥ることに恐れをなし、永遠の若さを保つ不死の薬草を求めて彷徨ふ、といふ話がある。

 人は、死といふ運命から遁れることが出来ない、といふことを知つてゐます。運命というものは、人間の意識とか業とかを超えてゐる何ものかでありませう。この運命に恐れ慄いて、人間を超える神を求めてゆくのでせう。あらゆる宗教が死について語りますが、その死がシンギュラリティーによつて代替するとなると、宗教はどうなつてゆくのでせうか。
 
 「運命」といふか、単に「運」といふのでせうか。地震や津波、火災などの思ひがけぬ大災害で死ぬこともあれば、偶々通りかかつた交差点で乱暴な運転による事故死や、工事中の足場の落下で死ぬこともある。電車が脱線して死んだり大けがをすることもある。人はさういつた場面にいつ出くはすか分かりません。

 に拘はらず人たちは街を歩き、電車に乗り、学校や会社に通ひ暮らしてゐる。これつて、人は平気で死に向かつて生活してゐるといふことですよね。わたくし、そもそも人間つて楽天的な生きものだと思ひますよ。それぢやなきや生きてゆけないといふより、ハイデガーを持ち出すまでもなく、なあーんにも考へてゐないんぢやないでせうか。「杞憂」といふ言葉が逆説的に出てきます。

 さて、私が癌に罹つて余命4年とか、あと4か月とか宣告されたら私はどう出るのでせう。分かりません。考へたくもありません。いつものやうに「なるやうになる」で済ますのでせうか。

 ところで、最近たまたま読んだカズオ・イシグロ氏の小説『私を離さないで』では、3~4回臓器を摘出され人生を終へることを運命づけられてゐるクローンの若者たちの話でした。ここでの「半人間」たちは恋あり、友情ありで、悩みがありながらも自分の運命を受け入れてゐるやうに見えます。

<追ひ書き>著者はインタビューで「私の場合、小説創作で行き着くところは同じだ。つまり「人間とは何か?」ということだ。それを今後も問い続け真理を追究していきたい」と語つてゐます。

 最後に、この講座では先生仰るうやうに、「AI」なり、「死のシンギュラリティー」を考へることは、「人間とは何か?」を問ふことでもありますね。