ソクラテスあるいはモーツァルト
「ソクラテスとモーツァルトを合わせた本を書こうと思っている」と、ある出版社の人に話したところ、「それはやめたほうがいい。ソクラテスに関心のあるひとはモーツァルトに関心がない。モーツァルトに関心のあるひとは、ソクラテスに関心がない。つまり、読者がいないということさ」とアドバイスされました。
本当にそうなのでしょうか。ニーチェが「あの論理家ソクラテス」と唾棄したように、ソクラテスは音楽とは相いれない非芸術的な存在だから、というのでしょうか。本当にソクラテスは「論理だけ」の存在ですか。「あれか」「これか」で問い詰めるソクラテスの問答法は、「正義」や「美」といった概念の明確化を求めたものだったのでしょうか。
いや、ソクラテスの本質はそうではないと思います。ソクラテスの対話は、人々を偏見から覚醒させ、あらゆる縛りから自由にするところにありました。モーツァルトの音楽の本質もまた、そこ、つまり人々を自由にするところにあったのす。彼のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を絶賛したキルケゴールは、そこを見通しておりました。
以下の二つの小論は、この考え方を展開したものです。お読みいただければ、嬉しく、ありがたく存じます。ソクラテスにもモーツァルトにも関心のある方は、きっと、たくさん、いらっしゃると思うのです。
「情念のソクラテス」としての『ドン・ジョヴァンニ』ーキルケゴールはモーツァルトに何を見たか
「モーツァルトは音楽のソクラテスである」