ダンマと自然法爾としての「いのち」

                                茂木和行
 232号の編集後記に代えての「西田哲学を駄弁する」に対して、皆さんが反応してくれて、面白くなってきました。まずは235号での花岡永子氏の次のお言葉に恐縮しております。「232 号の最後の茂木和行先生のご寄稿を大変ありがたく拝読しました『絶対無』と同時に菅野先生の論述された『自然』が論究されていまして、やっと西田哲学のみならず西谷(啓治)哲学も同時に論究される方向へと移行し始めまして感謝です。科学や自然科学が入りますと田辺(元)哲学も論究されることになりますので大変豊かな対話が皆様によって進められて行くのではないかと期待させて頂いております」(「『物即精神、精神即物質』の世界からの応答の試み」)

 また235号では栗村典男氏が、科学もまた「信」の世界をその奥に秘めている、との次のような考察を披露してくれました。「科学の発展過程では仮説が重要であると理解する限りL.フォイエルバッハのように、『 “ない”(未だ証明されてないこと)ことを“ある”と信じる(前提にする)』こと、そこから学的諸追究が始まる、それは、科学は“信”を前提とした学問(世界)という側面も持つと言うこともできるようにも思えます」(「『信仰者と科学者』について」)
 
 本号では、大澤省三氏が明治の生物学者、丘浅次郎の立場から、「創造主神の作った人間」という定義を土台として作られている哲学は、進化論の登場によって崩れてしまっており、科学も信仰の一種といったニーチェのような考え方は「生物の進化を含めた科学の本質を顧慮することなく、一切の疑問を思弁的に解こうとした旧哲学の典型」であり、「誤謬である」との論を展開しています。

 私は、花岡氏が235号で展開している、一切が自然法爾に成り立っている「いのち」である、との西田哲学やハイデガー哲学の向か方向性に強く惹かれております。この考え方は、234号で、仏教学者の玉城康四郎先生が仏教経典にある概念「ダンマ」を「『宇宙の始原以来働き続ける形なき命の流れ』という大乗的で近代的な意味を与え、業熟体とよんだ」と、法橋登氏が紹介(「物理ファンだった仏教学者の先端科学探訪」)していることを意識せざるをえません。

 かつて、私の哲学の師匠であるギリシア哲学の井上忠先生が、玉城先生に望まれて道元について対談をしたことがあります(井上忠・玉城康四郎「道元の世界と哲学」(『理想』二月号、理想社、1976年、No.513)。その場における玉城先生の述懐によれば、和辻哲郎、田辺元らの伝統的な道元研究と、ハイデガーやサルトルら実存主義思想との比較研究など、学者として道元研究の渦中にいながら、そこに「大変飽き足らないものを感じ」ていたとき、井上先生の処女出版『根拠よりの挑戦-ギリシア哲学究攻』(東京大学出版会、1974)を読んで感動し、「失礼だとは思うがーあっ、これはいける」と対談相手に選んだそうです(「道元の世界と哲学」『理想』二月号、p.21)。

 玉城先生がこのとき「ぼくは何もいうことはない。みなその通りだ」と絶句したのが、井上先生の道元の「行仏威儀」の読みでした。「無限に広い全体を全体として掴まえようとし、その刻み跡、鑿跡が見えるような形で道元が歩いて行っている」と井上先生は、自己の哲学的思索と重ねながら語ったのです(同p.29)。この全体こそ、わたしの中にありながらわたし自身を包み込む、ダンマであり、自然法爾の「いのち」ではないかと考えているところでございます。 

 さて、大澤氏は、仮説を一つの「信」の表明とする栗村氏の説論に反論を用意していますが、科学と哲学の境界に限らず皆さんの “知的参戦”を是非!