三人の対話者 石川朗「賢治とカントの接点」など
★「てつがく」問答への参加者が、少しづつですが、現れ始めています。モドンキhiさん、旧少年ジャンプ読者さん、石川朗さん、ありがとうございます。
ソクラテスの問答法は「さらなる真の知が渇望される破壊と創造のプロセス」だとする
旧少年ジャンプ読者さんのお話は、私のお師匠さんである故井上忠先生を彷彿とさせるものでした。それにしても、ウーン、仏教の「戯論寂滅 破邪顕正」に通じるとは、なるほどです。
石川朗さんが取り上げている宮沢賢治『春と修羅』の「わたくしといふ現象は…ひとつの青い照明…」は、わたしも大好きな詩の一つです。「有機交流電燈」をカントの目的論的自然観とつなげる興味深い論考、ありがとうございます。どれほど不条理にに満ちたものに見えても、この世界の存在目的が、やがては賢治やカントの目指した共生的で安寧なものへと向かうであることを、信じたいと思います。
- ソクラテスとかけて何と解きますか。
私の答え。「私を含めた、すべての人間に内在する善への希求 」
ニーチェの答え。「どろどろした人間そのものの怪物」- 茂木和行 2014-08-26 (火) 22:53:06
new- 知の探究に比べたら、私の命など軽いものだ。と言ったかな? -- モドンキhi 2014-09-17 (水) 10:49:33
「さて、いつ、どこでそんなことを言ったかな。わたしの言葉にしては、恰好が良すぎる。それとも、またもや、プラトンが筆を滑らせたか」(ソクラテスーモドンキhiさんへのわたしの応答です)2014-09-23 (火) 13:27:30
new- 「「暗殺教室」でいうところの「教師」を暗殺すること」である。
ソクラテスは、「智恵がある」とされた人を訪ねては、彼らに質問を浴びせ、智恵がある、知があるとされている人が「無知であること」を暴露させ告白させてしまった。換言すれば、友好的に近づきながら、教師の任に堪えない教師を暗殺してしまったのではないだろうか。漫画「暗殺教室」の「殺せんせー」は生徒に全力で乗り越えられようと攻撃されても、攻撃をかわして受け止める。生徒は教師を乗り越えるためさらなる暗殺技術を磨く。私には、哲学=知を愛することは、知を批判的に吟味することである。批判に耐えない知は否定され、さらなる真の知が渇望される破壊と創造のプロセスである。私の応答は「破壊」に偏ったものという自覚はある。「戯論寂滅 破邪顕正」という精神を表すものと受け止めていただきたい。 -- 旧少年ジャンプ読者 2014-10-07 (火) 02:28:53
new- 賢治とカントの接点
大正13年1月賢治は、『春と修羅』を出版するために「序」を書いた。序は5聯、58行からなり詩集の詩に比べて抽象的な比喩に富んでいて難解であると言われてきた。それは冒頭の
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
この「わたくしといふ現象は・・・」の「現象」がそもそもの問題なのであった。この「現象」の解釈に躓き「假定された有機交流電燈の・・・」の「有機交流電燈」に躓いてしまっては、「透明な幽霊の」正体はおろか解読の気力をほとんど失ってしまうのである。
この「現象」は、カント(1724~1803)が『純粋理性批判』でコペルニクス的転回をなし遂げた「認識論」の重要概念である「現象」なのである。繰り返すがカントの「現象」であることが、重要なのである。(ただの文学的な現象であったり、『宮沢賢治語彙辞典』のフッサールの「現象学」であったりで不分明である。カントの「現象」以外では第5聯へのブリッジ、5聯自体の解釈が難しい)。
また、次の「假定された有機交流電燈の・・」の「有機交流電燈」は「有機体」、「有機生命体」のことであり、「透明な幽霊の複合体」は「有機生態系の現象」のことだ。カント哲学特有の「現象」と「物自体」という二元論が「透明な幽霊の複合体」という、絶妙な表現となっているのだ。これはカントの第三批判書である『判断力批判』の第2部の「目的論的判断力批判」の「有機体」に関連していることとなる。
以下に検討する『春と修羅』序の解読には、カントの哲学的な概念を適用しカントの地平における『春と修羅』序の認識と表現の射程を検証する。
春と修羅』序の意訳と補注
序
[第一聯]
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
[意訳]
カントが「現象の世界」といい、ショーペンハウエルが「世界は私の表象である」としたこの自然的世界。
有機生命体としてこの世界に生きるわれわれは、あらゆる生物と共に、広大無辺なこの自然界で、それぞれの生態系を形成しています。この生態系は合目的性を有する、無駄のない美しいものです。多様な有機生態系の生長のロゴスは、それぞれが自らを形成する力を有し、相互因果に満ちていてせはしくせはしくたしかにともりつづける、複合体としての共生の存在なのです。
(滅びても、その輝きは残るでしょう。)
[補註]
①この序の第一聯、第二聯はいわゆる賢治の時空(時間・空間)のリフレインから構成されている。「わたくしといふ現象は・・・」、冒頭のこの宣言はデカルトの「我思うゆえに我あり」に倣った力強い宣言となっている。この「現象」はカントの『純粋理性批判』(当時57才)の「認識論」の「現象」のことである。カントが「空間あるいは時間において直観されるすべての もの、つまり我々にとって可能的な経験のすべての対象は、「現象」以外のなにものでもない。」と宣言したあの「時空のア(*)・プリオリな形式」の「現象」のことだ。(* ア・プリオリ=経験に由来しない、先行的な視点をもつ、普遍妥当性をもつ、以下同じ)
②また、同じく冒頭の「假定された有機交流電燈の・・」の「有機交流電燈」は「有機体」、「有機生命体」のことであり、カントの第三批判書である『判断力批判』(当時66才)の、第2部の「目的論的判断力批判」の「有機体」に関連していることとなる。
この『判断力批判』でカントは、自然界の有機生態系のメカニズム、生長のロゴスの解明に、目的論的自然観を導入している。この有機体についての考察が後に『永遠平和のために』の著作として結実したという。
-- 石川朗 2014-12-23 (火) 12:33:29
- 茂木和行 2014-08-26 (火) 22:53:06