再々「響き合う議論」 ハイデガーの実存と「ありのままの私」

 「ありのままの私」をめぐって、前回も実に興味深い談論ができました。皆さんの声をまず聞いてください。

「人と話をしているときに、自分には気づかなかった自分が顔を覗かせるのを感じる。そのときに、ほんとうの自分が顔を出しているのではないか」「アナと雪の女王の~ありのままで~を松たか子とメイ・ジェイが歌っているが、娘たちに言わせると、松たか子のほうが心に触れてずっといい、と言う。歌は、メイ・ジェイのほうがうまいのに。松たか子の素朴なところがいいのだとか。どうも、彼女たちは本質を見抜いているような気がする」「ある展覧会で、曼荼羅風の絵を描いた。しかし、これは君の絵になってない、と批評された。自分でも、安易な気持ちで2週間で仕上げたものだった。もう一つ、自分の中で消化したものを出しなさい、と」

「スペシャリストになりたいと思っているのに、いつも組織を回す方にまわってしまう。それがいつも悩みの種だった。趣味で鎧の研究を始めたのは、一種の逃げなんですね。組織を回すのはだれでも代わりがいる。組織を回すという実体(ウーシア)ってあるのか、と。会社の人間は、みんな、ほかにウーシアを持っているのでは」
「私はね、人生において没頭できるものがないのです。五段の段位のある囲碁も、楽しくてやっている訳ではない、私にとっては暇つぶし過ぎない。ただ、これだけは言えるのではないか。このような場で、自分の考えや思いを聞いてくれる人がいる、どうも、そうしたときが、自分らしい状態なのかな、とも思います」
「私も没頭するときはあまりありません。しかし、没頭させられることはたくさんあります。ほんとうの私は、瞬間、瞬間にはあるかもしれないが、そのとりあえずの私が、ありのまま、ほんとうの私か、とも。私は窮屈なことがきらいで、組織にいても自由にしたい。ただ、ありのままの私を出すことは危険である、とも」

「ぼくは深く考えるのが苦手で、もっとも哲学的ではない人間なのではないか。ただ、知識欲だけはある。ありのままというのは、ときには偽善家だったり、偽悪家だったりする。偽善家の方が、進歩があるかな、と。偽善家は、見栄があって少なくともそうなりたい、と思わなければならない。ぼくは偽悪家でいくのが自分にとって自然なのかな、と。それのほうが楽だから」
「会社の中でできるだけ自分を出さないように努めていました。あまり、ほんとうの自分を知られたくなかった、からなのだと思います。45歳の時、たそがれ研修とうのがあった。最終日に、こんなことがありました。本人だけ座をはずしている間に、残りの全員がその人間はどんな奴か、思い思いに書いておくのです。戻って来てそれを見せられたとき、ぎょっとしました。隠していたはずの自分が、全部そこに出ている。たった2日でわかるのか、と」

「『ソクラテスの弁明』に触れて、あの世はもしかするとあるかもしれな、と思いました。それから哲学に興味をもち、フッサールの現象学などものすごく勉強しました」
「ぼくにとっては、先祖の墓を参ることが自分のアイデンティティー、と思っています。自分のことを言えば、建前と本音の闘いの中で、プラトンの言う気概を持つことが本来の私ではなかったか、と思いますね」
「ありのままの私で浮かぶのは、女性にとってのマナーなんです。年をとってきても、きちんとしたお化粧をして、それなりの身なりをしている人たちを見ると、ああ、素敵だなあ、と思う。みんなにきれいに見せること、女性にとって、何と言うか、マナーがありのままの私を示すことにつながるのではないか、と」

 「ありのままの私」や「ほんとうの私」について考える上で、皆さんのお話は「私」という存在に他者が深く関わっていることを示しています。「まわりの人間」から、「ご先祖」「歴史的人物」に至るまで、他者はあるときは鏡となって私を写し、ときには私自身の知らない私を教え、私を変身させ、活性化し、私のアイデンティティーを支えるのです。

 ハイデガーは、物の存在とは違う人間の存在のあり方を「実存」と名づけました。物は単に空間の「中に」あるだけなのに対して、人間は他者「とともに」「のそばに」、あるいは他者「に支えられて」存在します。「中に」(in)ではなく、「に」(at)「と」(with)であることを、ハイデガーは見出しました(ハイデガー『存在と時間(上)』桑木努訳、岩波文庫、pp.106-107)。他者との「関わり」(ゾルゲ)によって存在すること―皆さんのお話は、ハイデガーのいう「実存」として皆さんが存在していることを如実に示しています。これは驚くべきことではないでしょうか。そのような存在のあり方に気づいたハイデガーに驚くと言うよりは、皆さんがハイデガー哲学を体現していることに驚きを隠せないのです。

 『国家』の読解は、岩波文庫上巻(第五巻まで)を終わることになり、第Ⅲ期から下巻(第六巻―第十巻)の読み進めに入ります。そこで私たちはいよいよ、イデア論そのものの深みへと踏み込むことになるでしょう。そこから、どのような現代とのつながりが見えてくるのか、皆さんと一緒に楽しませてもらおうと思っています。

10、<思わく愛好者>と、<愛知者>の違い
第五巻一七~第五巻二二(445 -475頁、471C-480A)
一七 実践は言論よりも真理に触れることが少ない。できるだけ近い姿で、夢の実現可能性を探ることにしよう。
一八 ある一つのことさえ変わるならば、それによって国全体の変革が可能であるということを、われわれは示すことができるように思える。哲学者こそが支配の任にあたるべきだが、哲学者とはどのような人間であるかを正確に規定する必要がある。
一九 哲学者は、知の全体を愛好するものでなければならぬ。
二○ 完全にあるものは完全に知られえるのであり、まったくあらぬものはまったく知られえないものである。<あるもの>には<知識>が対応し、<あらぬもの>には<無知>が対応する。
二一 <知識>も<思わく>も、一つの能力である。<思わく>は、<知識>と<無知>の中間に位置づけられる。
二二 「美しい声」「美しい色」など個々の美しいものをあげるだけで、<美そのもの>についての存在を認めない人たちは<思わく愛好者>であって、<愛知者>(哲学者)ではない。