再考「哲学とは何か」 イデアとイデアイ

 前回に論議された、「他者によって生かされ、他者を生かす」といったハイデガーの哲学と、よく言われる人の社会性との違いについて、少し触れておきます。私たちが社会のなかで、人間とはこういうものだ、と考えていることと、高名な哲学者たちが提起してきた人間の位置づけとが、あまり変わらないように見えることは珍しくありません。哲学者の発言や言明が、金言として残るのも、それが私たちが漠然と考えたり感じたりしていることに通じているからです。

 ヘーゲルは「哲学は常にあとからやってくる」と言っていますが、それは社会の成熟にともなって人々の中に漠然と生まれている新しい考え方、切り口を、哲学者と呼ばれる人たちが具体的で明確な言葉によって表現するからです。つまり、すぐれた哲学者とは、世の中に生まれつつある新しい概念を「発見して」「言語化」する人たちである、と言っても過言ではありません。いくつかをあげてみます。

ソクラテス「無知の知」
プラトン「イデア」「想起」
アリストテレス「人間は生まれつき、知ることを欲する」「人間は社会的(ポリス的)動物である」「人間は理性的(ロゴス的)動物である」
デカルト「われ思う、故に、われ有り」
パスカル「人間は考える葦である」
ライプニッツ「予定調和」「モナド」
カント「存在は外部にあるのではない。私たちの内部に存在する」
ロック「心はタブラ・ラーサ(白紙)である」
ニーチェ「永劫回帰」
ヘーゲル「ここで跳べ」「弁証法的発展」
フッサール「私たちは何かを考える(心の志向性)」
ハイデガー「人間の本質は関心(ゾルゲ)である」
サルトル「存在は本質に先立つ」(サルトル)
etc。

 哲学者たちは、自然や社会を観察し、深く思考することによって、人間や心について、新しい切り口を見出してきました。こうした切り口が、従来の人間観に対して変革を迫り、世界や社会に対する私たちの「ものの見方」に再考を促してきたのです。その「どれも」が、「言われてみれば」でもあり、「ホントかな」でもあるところが、哲学の妙味でしょうか。

 さて、本日ご紹介したいのは、私の哲学の師である故井上忠先生がプラトンのイデアと「出会い」を重ねた哲学概念「イデアイ」です。井上先生は、私たちは事実の断片とともに生きているが、何かの瞬間に私たちの存在そのものをあらしめる全体としての<根拠>と出会うことがある、と思い当たりました。
 <根拠>は、プラトンのイデアと違って天上にあるものではなく、私たちの<近み>にあって、ひょっとしたことで私たちに現れます。その瞬間、私たちは事実の断片の隙間に、人生と世界のすべてを含む<全体>を垣間見てしまう、と言うのです。この全体との出会いを、井上先生は「イデアイ」と名づけ、「出会い」も、遭遇の意味を込めて「出遭い」を使いました(井上忠『根拠よりの挑戦』東大出版会、1974.3、pp.212-220)。

 添付したのは、元JFEの役員である金澤一輝氏が、学生時代に出会った若き研究者との出会いを社会人の勉強会「千代田フォーラム」の機関誌『耕心』に寄せた一文です。「私が先生と呼ぶひとはたくさんいるが、学問の先生は一人しかいない。大学1年の時に出会った『中井さん』だ」との書き出しで始まるその一文「中井さんと中井教授」の詳細は、添付の本文に譲りますが、これを一つの哲学的「イデアイ」の例としてお話したいのです。本文は、次のように始まります。

 「それは奇妙な出会いだった。昭和38年の梅雨のころ、中井さんは高校3年の甥ごさんの家庭教師を探していた。西部講堂のそばの学生部の掲示板に張り出された家庭教師募集に応募していた私が、運よく彼の面接にかかったのだ。…学生食堂に白衣を着た中井さんがやってきた。記憶というものは面白い形として残る。初めて中井さんを見たとき、ちょっと歌舞伎の実川延若に似ている人だと思ったのだ」。

 「中井さん」は当時まだ28歳の京都大学ウイルス研究所の一研究員に過ぎませんでしたが、安アパートなどでのわずか4回の会合で、金澤氏は彼に「とんがっていて、ただならぬもの」を感じ、「現状への鬱屈や批判精神、明らかな反権力」と同時に「学問的野心のようなもの」を見てとります。そして「都合4回、10時間に満たない時間しか話していない18歳の人間になぜそんなことが伝わったのだろう。それは今もって不思議としか言いようがないが、本当に学問をするということは、尋常でないとこちらにため息をつかせた」と書き、「本が埋め尽くす安アパートの暑い部屋で、若い学者が低い声で話し続けるあの夜の風景」が、「自分にとって学問というものの原風景となった」と告白するのです。

 30数年後、愛読していた須賀敦子についてのエッセイが載っている『時のしずく』(みすず書房)を、本屋でたまたま手にして立ち読みしていた金澤氏は、読み進めるうちに驚かされます。その著者、神戸大学名誉教授の「中井久夫」が、学生時代に大きな感銘を与えてくれたあの「中井さん」だったからです。本とのこの偶然の出会いがなかったならば、「中井さん」との遭遇の鮮烈な体験が、世に出ることもなかったでしょう。あの「出遭い」で金澤氏が「見た」ものこそ、「学問」という巨大な全体世界であり、そこから世界そのものの全体(<根拠>=イデア)が輝き出ていたのではないでしょうか。

 イデアは遠くにあるのではなく、私たちのそばにある。91歳になる私たちのお仲間は、8年前にこの講座で『ソクラテスの弁明』と出会ってから、哲学の世界へと踏み込み、いまにいたっています。彼のソクラテスとの出会いも、一種の<根拠>との「イデアイ」だったのではないでしょうか。皆さんの「イデアイ」を聞かせてください。