再考:民主主義 「寄りあい」に息づく「イソノミア」の精神

 今回は、受講生の一人が、柄谷行人著『哲学の起源』(岩波書店、2012.11)で提起されている「イソノミア」に着目し、民主主義のあり方について問題提起をしてくれました。柄谷によると、イソノミアは古代ギリシア時代に小アジアのイオニアで生まれた社会のあり方で、彼はアーレントの『革命について』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1995.6)の記述(p.40)から「無支配」と訳しています。柄谷は、誰も主人ではない平等な社会が200年の間、イオニア地方では続いて来たと言い、この概念をとかく問題の多い「民主主義」に代わる新しい社会のあり方として提案したのです。
 この考え方に共鳴しての受講生の話に、大いに議論が盛りあがりました。

 「無支配というのは現実にはどういう形で社会がまとまっていくのですか。物事はどのようにして決まっていくのですか」
「ぼくは原始共産制的なイメージを描いています」

 「ツキジデスの『戦史』に、ギリシア人が植民していくときのやり方が書いてある。浜に上陸すると、半径500メートルぐらいを杭でぐるりと囲み、そのなかでみなが物事を決めていく、というのです」

 「民俗学者の宮本常一が書いた本に『忘れられた日本人』というのがあって、そこに対馬の村のあり方が出ている。物事は、誰が決めるのでもなく、みんなが集まって決めていくのです。それがずっと続いてきた」
「信長のころの堺もそうですね」

 「イソノミアを無支配、と訳すことはいかがなものなのでしょうか。調べてみると、これはある公共空間における法のもとの平等、という意味なのですね」

 「イソノミアἰσονομία 」は、この受講生が指摘する通りで、辞書的には「同等の権利」(古川晴風編著『ギリシヤ語辞典』大学書林)を意味します。ある集団の構成員全体が分かち合う権利の平等、と言うのがかなり原意に近いでしょう。プラトンの『国家』でも民主制の特徴の一つとしてあげられている言葉で、藤沢訳では単に「平等」と訳されています(たとえば「558c,p.230」「 563B,p.245」参照)。

 アーレントは『革命について』で、イソノミアを「市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配関係(ノー・ルール)の元に送っているような政治組織の一形態を意味していた」とし、この観念をヘロドトスの『歴史』(Hisitoriae)における一節から得ている、と注で示しています(p.82)。

 この一節は、ペルシアの内乱で独裁制への疑問が出た時、有力な後継候補の一人が述べたとされている部分です。このとき、7人の有力者がどのような政治体制が望ましいかを議論し、その一人が「私は人を支配することも、人から支配を受けることも好まない」として、「ἰσονομίαイソノミア」を提案した、とヘロドトスは書いています(三巻80-82、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、)。ここでは、訳者はイソノミアを「万民同権」(p.339)と訳しています。
 (英語では「isonomy」1、市民同権 2、市民権、政治的権利の平等性 『ジーニャス英和大辞典』として残っている)

 アーレントは、ツキジデスの『ヒストリア Historiae』(『歴史』ないし『戦史』と訳されている)も引用しており、そこではペロポネス戦争の間に都市国家のなかでどの政治体制が良いかの議論が湧きあがったとし、「諸都市における両派の領袖たちは、体裁のよい旗印をかかげ、民衆派の領袖は政治的平等(ἰσονομία πολιτικῆς)を、貴族派は穏健な良識優先を標榜し、…」(三巻82.8)だったと、ツキジデスは書いています。このイソノミアは、藤縄謙三訳(『歴史』京都大学出版会、2000.5、p.330)では「同権」と訳されています。
 
 ヘロドトス(Herodotus ~BC485-~BC420)やツキジデス(Thucydidis BC460-BC395)の時代には、「イソノミア」すなわち「平等」や「同権」が保証される社会のあり方が存在し、これが「デモクラシーである」と位置づけられていたようです。ヘロドトスが報告しているペルシアの政治体制論議は、ダレイオス1世(~BC550-~BC486)が即位するきっかけとなった内乱直後の模様を描いたものです。
 
 「万民同権」「政治的平等」のような状態で、集団が物事を決定することが可能かどうかは興味深い問題です。別の受講生があげてくれた宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984.5)には、イソノミア型社会が具体的な形として現れているような気がします。それは、日本社会に古くからある「寄りあい」です。
 
 かつてはクジラ漁がおこなわれた日本海に浮かぶ対馬の伊奈村に、古文書を調べにやってきた宮本は、お宮のそばの森の中にたくさん人が集まって何か話をしているのを見かけます。昼すぎにまたそこを通ると昼飯も食べずに話を続けており、不思議に思った宮本が村の長クラスの老人に聞くと、それは「寄りあい」と呼ぶ村の協議の場である、と教えてくれます。

 「いったい何の話をしているのですか」と古老に聞いても「いろいろとりきめる事がありまして…」とよくわかりません。結局、宮本はその「寄りあい」の場へと直接出かけていくことになるのです。

 いってみると会場のなかには板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話し合っている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。
 もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどって話し合う。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならい。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうである。眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。
         (「対馬にて」1、寄りあい p.13)

 燈台下暗し、イソノミアの精神は、日本の伝統のなかに息づいていたようですね。