又々 やぶにらみ雑記帳

1.アテナイ人諸君とはだれのことか
私は今期課題図書の『ソクラテスの弁明』は田中美知太郎訳(『世界の大思想19 プラトン』所収/河出書房新社。昭和49年版)を使用してゐます。
さて、<ソクラテスは、なぜ、「裁判人諸君」と呼びかけずに、「アテナイ人諸君」と呼びかけたのか>についてです。
すでに先生のレジメに答へが載つてゐますが、あへて『弁明』の文中から引用すると、
「いずれもみな厄介至極の連中なのです。かれらのうちから誰かを、このところへ引っぱり出して来て、これらを吟味にかけるというようなことも、とうていできないのでして、これに弁明するというのは、何のことはない、まるで自分の影と戦うようなことをしなければならないのでして」(351p)とあります。つまり、「自分の影」と戦ふには、「アテナイ人諸君」と呼びかけざるを得なかつたことになります。
 「影のような存在」と言へば、SNSとか、ツイッターとかで無責任な発言がみられますが、その影と戦はざるを得ない当事者には迷惑このうへないものでせう。
 なほ、『弁明』には、「裁判官の諸君」(362p)、「裁判官諸君」(381~383pp)との呼びかけもありますが、この場では「アテナイ人諸君」ではなく、裁判官への呼びかけが妥当であると思ひます。
 ところで、政治家の記者会見で、総理は居並ぶ記者に対してではなく、「国民のみなさま」と呼びかけることがあります。都知事にしても「みなさん、どうぞ不要不急の・・」と呼びかけますね。当たり前ですね。
 余談ですが、ソクラテスは広場に居並ぶ500人の裁判員を前に弁明したとのことですが、マイクの無い時代にどうやつて彼の小難しい長台詞が大勢に届いたのか素朴な疑問が出てきます。古代ローマでのカエサルの大衆への演説にしても不思議でなりません。よつぽど大声だつたのでせうか。

2.デルポイの神託の意味を解読しよう
 デルポイの神託での「ソクラテスよりも知恵のあるものはだれもいない」に対して、ソクラテスは、「神より第一番の知者はいないはずなのに、なぜ、私が一番だと告げたのだろう」と疑問に思つたとのことですが、これは「私の名前は、つけたしに用いているだけのようです。つまりわたしを一例にとって、人間たちよ、お前たちのうちで、一番知恵のある者というのは、誰でもソクラテスのように、自分は知恵に対しては、実際は何の値打ちもないものなのだということを知った者が、それなのだと、言おうとしているようなものなのです」(357p)と、ソクラテスは謎解きをしてゐますね。
 ところで、ソクラテスは「神の真意を探りにアテナイの知者と言われる者たちに問答を持ちかける」ことになりましたが、「結局彼らは何も知らないではないか、と結論付ける」まではいいとしても、「(彼らは)知恵があると思っているけれども、そうではないのだということを、はっきりわからせてやろうと努めたのです」(355p)。また、
「知恵があるとは思えない場合には、神の手助けをして、知者ではないぞということを、明らかにしているのです」(357~358p)と、ソクラテスは言つてゐます。この発言には、田中美知太郎が『ソクラテス』(岩波新書)で、「これは最初の目的から言えば、全く余計なことであるととも考えられる」(139p)とあるやうに、極めて余計なことで、お節介でお喋りな彼の一面が出てきてゐると思ひます。彼が嫌われるのはこんなところに表れてゐるのでせう。彼自身も「あぶ」に譬へてゐますね。「つまり神は、わたしをちょうどその“あぶ”のようなものとして、この国群に付着させたのではないか」(『ソクラテスの弁明』369p)と述べてゐます。“あぶ”が好きなやうな人は居ませんよね。

3.無知の知とは何か
プラトンの『饗宴』で、ソクラテスとディオティマの対話が出てきます。
ソクラテスが「エロースは偉大な神で、美しきもののエロースだ」との意見に対して、ディオティマは「あなたは、ものは美しくなければ、必ず醜くなければならないと考えているのか。また、人は、賢くない、知識が無ければ、それで無知であると思うのか」つまり「知と無知との中間になにものかがあるということを知らなかったのか」と言ふ。
 プラトンは(ソクラテスをして)ディオティマに、知識と無知との中間に正しい「思惑」、真なる「思ひなし」があり、この「思ひなし」「思い込み」(ドクサ?)と言はせてゐます。(田中美知太郎『プラトン「饗宴」への招待』(筑摩書房/昭和46年初版)を参考にしました)
私は単純に、プラトンは二元論者と捉へてゐましたが、「知」と「無知」、いはば「有」と「無」の中間的存在を考へてゐたとは存じませんでした。これはアリストテレスの「中庸」へ繋がるのものなのでせうか。

設問の「無知の知」とは、平たく言へば、分からないものは分からないものとして捉へるのが真に分かってゐることだ、と解釈するのもありなのでせう。単純に、自分は無知であることを自覚してゐる、これが本当の「知」といふものだ、と。
(余談ですが)世の中には、利口なくせに、「俺はバカだから・・・云々」と始めたり、散々云々しておいて、「知らんけど」と後に付け加えたりする人がゐる。なにげにズルイ。
ところで、私は「知識」と「知」と「識」に勝手に分けて考へてゐます。これは、貴講座
「ハムレットの哲学」と「考えるヒント」で再度述べてゐますので詳しくは省きますが一部
再掲します。「無知は有知に勝る」「無識は識に勝る」と。
「知る」といふこと。
 ・アリストテレスに、「人間は、生まれつき、知ることを欲する」とありますし、哲学は
  「愛知」であるとも教はりました。
 ・ところが、世の中には、「知らないはうがいい」「知らなかつたはうがよかつた」との
  ケースが少なからずあるのではないだらうか。
 ・「ものは思ひ知らぬこそよけれ」(とりかへらば物語)、「知らぬが仏」(諺)のやうに。
  無知は有知に勝ることがあると思ひます。
「識る」といふこと。
 ・ものごとを「識つてしまふ」と、想像力が損なはれてしまふのではないかと思ひます。 
  先入観や過去の経験や知識を無くせ、と。「識」が干渉すると台無しになつてしまふことがある。「月を愛でるに天文学は要らない」のであります。

さて、レジメに、「知恵」は「~することが出来る」技能的な意味合いから生じた「問題
解決力」とあります。「知恵」といへば、小難しいことはさて措き、いはゆる「おばあちゃんの知恵」が一番親しみやすくて分かりやすくて実生活に役立つ「問題解決能力」だと思つてゐます。

4.アリストパネスの「雲」からイデア論へ 5.えっ?イデアを担うのはダイモン?
6.ダイモンの正体とは
 4~6項で、神、エロス、イデア、ダイモンなるものが出てきました。
プラトンの『饗宴』に於ける、ディオティマとソクラテスの会話が私にはじつに興味津々たるものがあります。ディオトマ(以下D)が「エロスは美も善も欠いてゐる。従つて神ではない。神はすべてを持つからだ」、これに対しソクラテス(以下S)は「神でないとすれば神は死すべき人間の一人なのか?」。Dは「神は不死なる神と死すべき神との中間にあるものなのだ」と。Sは「では、それは何なのか?」。D「それは偉大なるダイモンである。すなわちダイモンの類いはすべて神と人との中間に存在するものなのだ」。更に、「神と人間とは隔絶して離れてい、その間を埋めることによって全体が一続きになるように、神と人との間にあって両者の仲立ちをするということだ」と念押ししてゐます。(以上、田中美知太郎同著作を参考にしました)これも先の3項であつたやうに中間的なるものの存在を述べてゐますね。
 さて、エロスが「ダイモン」であるとすると、レジメで<「エロス」は「それ自身が、それ自身だけで、独自に、唯一の形相(イデア)をもつものとして永遠にあるもの」であり、「それ以外の個々の美は、その美を分有している」>と先生仰るとほり、ダイモンがイデアを担つてゐることになると勝手に解釈してゐます。
 ところで、この中間的なるダイモンといふのは、キリスト教に於ける「預言者」のやうなものなのでせうか。「受胎告知」のガブリエル天使も同じやうなものなのでせう。或いは三位一体説での「神の子」には、神の世界、神の光の「証(あか)人」として皆に伝へ生きるといふ解釈もあるらしい。「日本の恐山の「イタコ」も、神ならぬ、仏さんや祖霊の声を人に「口寄せ」するのも日本版ダイモーンとみてよいのではと思ひますが・・・。
ところで、スピノザが云ふには、預言者たちが共通にもっている能力は、知性ではなく「並外れて活発な想像力」つまり、並外れて「思ひ込みの激しい」人だ、とのことです。
 さて、ダイモーンとイタコが登場しますと、どうしても「霊感」に登場してもらひたくなります。「霊感」とは実体として物理的に見えるものではないでせうから、すつきりとは分かりませんが(分からないからこそなのでせうが)、私には分かるやうな気がします。私の「気分」にすぎませんが(さういへば、気が分かる、と書きますね)。
小林秀雄に有名な「蛍」の話があります(「その年は初めて見る蛍だつた。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光つてゐた。おつかさんは、今は蛍になつてゐる、と私はふと思つた」小林秀雄『感想』)と。私にも同じやうな体験があり、科学的に云々は措くとしてリアルなものでした。これを「霊感」と言つてよいのかは分かりませんが、かういふ感性?感受性?(思ひ切つて)美意識?は持ち続けたいと思つてゐます。

7.ソクラテスとかけて上杉謙信と解く、その心は

 私は、上杉謙信の「宝在心」16ケ条の存在を知りませんでした。生き方に真摯ではあるものの16ケ条の内の、「心に勇みある時は悔やむことなし」のやうに只管に戦(いくさ)を望む武将と捉へてゐました。<ソクラテスの「徳へ導く気遣い」の世界に通じている>
との先生のご指摘に、私は「無知」だつたといふより、「無識」過ぎたのを自覚しました。

 レジメの後半に、小林秀雄は、「あらゆる存在は、直接には、心的な観念として、形相として、経験されるより他はない。これが、ソクラテスの自己との対話の出発点をなす」(「悪魔的なもの」『栗の木』p.226」講談社文芸文庫)となかなか含蓄のあるソクラテス論を展開しています。「気遣い」や「心構え」は、行動や言動につながる一つの心的状態、小林的に言えば「心的観念」ということになります。」とありました。
 私の小林秀雄の今までの捉へ方は、かれは「心的な観念」や「形相」、抽象的概念などを積極的には評価せず、むしろ「具体的心象」を大事にしてゐたのではないかと、思つてゐました。間違ひでせうか。

 先生の、プラトンの、「大いなる存在」=「イデア」をソクラテスは、感じてはいましたが、「それが「何か」を知らない自分に気づいていました。それが「無知の知」と言われるものです」とありました。ああ、さうなんだ、と。人口に膾炙した、たつた一言の「無知の知」の「大いなる力」「深い自覚」を感じました。

8.ソクラテスの本質って何?
 レジメに、「裁判員たちが騒ぎ立てたのは①アテナイの慣習への無配慮な傲慢さ②アテナイの神を持ち出して自分の行為を正当化する不遜さ③自分の行為に対する全く反省のない傲岸さ、に対してのものであることは否定できないでしょう。」とありました。
 全くその通りで、彼の本質は一言で言へば、裁判官や民衆たちを「舐めてゐる」に尽きるのではないか。あへて付け加えると、自分を「あぶ」に譬えて言ふやうに、「傲岸不遜」で、「お喋り」で、「お節介者」ですね。

9.ソクラテスが嵌まったパラドックス
 このパラドックスは、レジメにある、「デルフォイの神託を持ち出した結果、彼は自身を人ではない神の位置に置」」いたことが一番の致命傷になつたのではないでせうか。
ところで、日本の戦国時代の信長は「自分は神になる」と名乗り出たとのことですが、その他の武将たちや民衆は驚いたものの騒ぎ立てはしなかった。この辺が古代ギリシャの民主主義との違ひかもしれませんね。近頃も独裁者は困つたもんだ。

10.クセノフォンによる「もう一人のソクラテス」
 謙虚であったソクラテスが、「傲慢とさえ見える自信家となったのはなぜ」かは、たぶん
彼は、対話を続けてゐるうちに、自分は無知であることを知つてはゐるが、相手は何も知らないんだ、分かつてゐないんだ、ならば自分は絶対相手を打ち負かせられるんだ、と確信したからではないでせうか。