存在の「アレテー」としてのイデア
2014.8.12に、若きハイデガー研究者を招いて、哲学講座の自主教室が、松戸市女性センターで開かれました。受講生の一人が、一か月ほど前に実現した自主教室で、ハイデガーの存在論に触れ、「イデアと存在」とはどのような関係があるのか、と課題を出したことを受けたものでした。
以下のタイトルのペーパー
存在の「アレテー」としてのイデア
を用意し、この愚文から実に有意義な議論が進んでいきました。
いくつかの印象に残った発言を書きます。
「現実というもはいつも不完全なものだから、理想としてのイデアのようなものを人は求めるのではないでしょうか」
「宮沢賢治が、彼の詩のなかで、未完成は完成、と言っていたことを思い出します」
「それは、ソクラテスの無知の知とつながるのではないでしょうか。知らないことに気づくから、知ろうとする探究が始まる。未完成だから、完成させようとする行為が続く」(若きハイデガー研究者)
「(筋ジストロフィーで身体の自由がきかない)宇宙論者のホーキングが、子どもたちにこんなことを言っています。不完全だから、動きが起きるんだよ。ぎっしりボールが詰まった箱のなかでは、ボールは動かない。欠けている箇所があると、そこを埋めようとボールが動く。私たちの世界も同じことさ」
ハイデガーの若き研究者が、ハイデガーの現象学的判断停止の話をしてくれました。「絵画を鑑賞するとき、私たちは伝統や周囲の声にとらわれて、ある種の偏見によってその作品を見てしまう。ハイデガーは、そのような既成の見方や考え方を捨て(判断停止)て、絵画を見なさい、と言っているのです」
そこで私が、古代ギリシアの哲学者ピロンの唱えた元祖「判断停止」(エポケー)とどう違うのか、と聞きました。披露した私のつたない解釈は、次のようなものです。
判断するとき、無限の可能性があるのに、私たちは既成の枠組みから逃れられず、ある種の固定的な選択をしてしまう。それを無限の可能性に身を開く、つまり可能性に身をまかせること、がエポケーである。行ってみれば、ある種の「ケセラセラ」の境地である。
このいささか珍妙な解釈に対して、若きハイデガー研究者は、「ハイデガーのエポケーは違う」と、こう説明してくれました。
ハイデガーの言いたいのは、すべての偏見から自由になって、相手(対象)の声に耳を傾けよ、ということです。
ウーン、なるほど、それは「身を空にして天の声を聞け」ということのようです。
3時間の自主教室のなかで、経文の「三帰の文」にある、次の一文は、存在論から見ると、どういう意味をもつことになるのか、と、実に深い問いも出されました。
人身受け難し、今すでに愛く、仏法聞きがたし、今すでに聞く
この世に存在すること自体がありえないほどまれなことなのに、なかなか聞けない仏法を聞けるなんて、これほどありがたいことはない、という意味でしょうか。
これに対して若きハイデガー研究者が
「ライプニッツが最初に語ったものだと思うのですが、ハイデガー。も問いかけている言葉に、
なぜ無があるのではなく存在があるのか
があります。これに通じるのではないでしょうか」
ハイデガーの基礎的な哲学的立場から、プラトンやアリストテレス、デカルト、ニーチェまでを自在に駆使して、哲学の扉を開いてくれるこの若きハイデガー研究者に、受講生ともども感服した次第です。
拙文の「存在物から存在を引きはがせば「無」しか残らない」に対して、「私はそうではないと思う。時間が残るのではないでしょうか」と、一人の受講生は指摘しました。さて、現象を生じさせる陰の因子である時間は現象界の存在物なのかどうか、もしそうならば時間のイデアなるものもあるのかどうか、どうやら、さらなる自主教室の開催が必要なようです。
存在の「アレテー」としてのイデア―ひとりの自由人のつぶやき
ソクラテスがひたすら説いたのは、「身を律すること」(ἐπιμελέιαエピメレイア)だった(『ソクラテスの弁明』29e,30b)。身を律することによってのみ、人は有徳の人になれる。プラトンは、見えにくい小さい字でも大きく書けば良く見えるという奇妙な例えを持ち出して(『国家』2.368D)、ソクラテスの問いを「国家を律すること」へと変え、哲人王が向かうべきゴールとして「善のイデア」を提唱した。「イデア」(ἰδέα ⇒実相と訳される)は、「そのもの」ないし「本質」などと解される。
プラトンは、「美そのもの」を掴むことのできる哲学者が「真実(アレーテイアἀλήθεια)を観る哲学者」である、と語るところから、彼のイデア論は始まる(『国家』5.476A-480A)。そして、4つの徳性「正義」「節制」「勇気」「知恵」を被う大徳とでもいうべき位置に「善ἀγαθόςアガトス」を置き、すべての徳が向かう先に「善のイデア」である、と考えた(『国家』6.504A-505A)。(注:λήθη=忘却、ἀλήθεια=原意:忘れさられたもの)
「すべての存在」―人間を含む生命体から、石や火や水などの物質・エネルギー、生命の変容・物質の転換、人間の思考・言動、そして抽象概念としての「善」や「美」「正義」…は、それぞれが個々のイデアをもつ。現実の存在は、すべてその影である(『国家』洞窟の比喩。7.514A-521B)。「善のイデア」は、「万有」の背後にいわば大イデアの形で君臨する。「万有」を現象と呼べば、現象を生じさせる源。イデアを「空」と見れば、「空即是色」「色即是空」は、イデアとその影との関係そのままになる。
現実界は、「この机」「この人間」「この美しさ」と指し示すことができる。それは、存在に対して存在物である。しかし、存在そのものは、指し示すことができない。あらゆる存在物にまつわりつき、決して離れてはくれないこの奇妙な付着物(?)に、サルトルは人間に嘔吐をもよおさせるものとして描いた(『嘔吐』)。存在物から存在を引きはがせば「無」しか残らない。その意味では、存在は存在物を現出させるためのアリストテレス的「形相」と言えなくもない。形相とはギリシア語のイデアであり、英語のアイデアである。いかなるアイデアも、現実化、すなわちアリストテレス的な「質料ヒュレー=原意は森林、木材」を注入しないかぎり、これと指し示すことができない。
ソクラテスは、個人としての「存在のあり方」を問い、プラトンは、国家としての「存在のあり方」を問うた。ソクラテスはそのあり方の究極に、「アレテーἀρετῇ」(徳。原意は「すぐれていること」)を置いたが、プラトンは国の存在のあり方にアレテ―を求めたのだ。アレテ―は、カントの求めた究極の理想「神の格律」と重なる。国の人間のすべてがアレテ―に達し、世界の人々すべてがアレテ―へと至ったとき、善が支配する真の世界平和が訪れる、とカントは考えたのではなかったか。
空虚な「存在という容器」を、アレテ―に満ちた質料で満たせば(仏像作って魂入れる)、プラトンが模索した「善のイデア」の世界が現実化するはずである。だが、その具体化は、いまだに人類の巨大な責務として私たちの答えを待っている。