平成24年度第Ⅰ期講座カント『判断力批判(上)』を読む

第一回 わたしたちはなぜ自然に合目的性を見るのか?

サブテクスト:水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」
       アリストテレス『形而上学』(四原因=四つのアルケー)
         始動因  始まりがなければ何も存在しない。
質料因  すべての存在には中身がある。
         形相因  すべての存在には形がある。
         目的因  すべての存在には終わりがある。

●「幸せは歩いてこない」⇒ゴールは向こうから来ない。時間の矢は未来からは訪れない。幸福は未来にある。
「だから歩いていくんだね」⇒ゴールへ向かっていくことが決められている。⇒一つの目的論
●自然の中に容易に見いだされる合目的性(たとえば人間の組織や器官の関係を考えると…)
 
歯はものを噛み砕くために存在する。
 胃はものを消化するために存在する。
 消化器官は、ものから栄養を体内に取り入れるために存在する。
 …
 手は、畑を耕したり、木の実を採集するために存在する。
 
 こうして、わたしたちの身体のすべての器官は、わたしたち自身を存在させ、さらに子孫を残すために存在していることになる。⇒部分は、全体を存在させるために存在する。逆に、目的を失った器官、たとえば盲腸などは、消滅していく。

●だが、人間の各部分は、人間という存在全体を存在させるために、つまり人間を維持・継続させるためという目的において存在しているのだろうか。実は、すべての部分がそれ自身を存在させるために全体を利用しているとは考えられないだろうか。たとえば全体を代表する脳は、胃という器官を存続させるために存在している、など。各組織、各器官が、お互いに寄生体としてつながっている関係にある、と考えたとしたら、目的論的世界観はいかなる変貌を遂げるのだろうか。

<参考>斎藤一人「幸せの道」(録音)

第二回 快・不快の感情は目的を求める

サブテクスト:松井冬子 作品とインタビュー「松井冬子の魅力」
       レディ・ガガ 「バッド・ロマンス」など歌とパフォーマンス

「ところで或る種の対象の概念は、それが同時にその対象の現実性の根拠を含む限りにおいて目的(Zweck=purpose)と呼ばれる。また或る物は、およそ物のもつ或る種の性質―換言すれば、目的に従ってのみ可能であるような性質と合致すれば、その合致はその物の形式の合目的性と呼ばれる。それだから[反省的」判断力の原理は、経験的[自然]法則と一般に従う自然における物の形式に関するものとして、多様性をもつ自然の合目的性(Zweckmӓssigkeit=purposiveness)である。要するに自然は、[合目的性という]この概念によって、あたかも或る種の悟性が多様な経験的[特殊的]自然法則を統一する根拠を含んでいるかのような具合に考えられるのである」(pp.38-39)

とカントが言うように、私たちは自然のさまざまな情景や形、動きを見るとき、それらを統括する何らかの根拠があるに違いないと考える。つまり、悟性によるそうした働きによって、私たちは、自然がまったく無根拠の得体の知れないものではない、と妙に納得することによって安心感を得ているのではないか。つまり、私たちは「存在理由」を見つけることのできる「もの・こと」に対しては、受容することができるのである。
しかし逆に、

●わたしたちが、何かある存在に出会ったり、考えたりするときに、それが「何のために存在するのか」がわからないときに、戸惑いを覚えるのではないだろうか。

●「要するに対象が合目的と呼ばれるのは、対象の表象が快(Lust=joy=心地よさ、喜び)の感情と直接に結びついているからにほかならない。そしてかかる表象が即ち合目的性の美学的表象なのである。すると問題は-いったい合目的性のかかる表象が存在するのかどうか、ということだけである」(p.54)
と、カントは言う。
では、

画家・松井冬子の作品は、いかなる「快」と結びついていると言えるのだろうか。レディ・ガガの歌とパフオーマンスは、いかなる「快」と結びついていると言えるのだろうか。

 すなわち、彼女らの作品に、いかなる合目的性があると言えるのだろうか。

第三回 関心を感じることと、美の対象は同じではない

サブテクスト:北大路魯山人『魯山人魂を刳る美』(二玄社、1998.6)
       DVD「北大路魯山人 美覚独歩」

「もし誰かが私に向かって、私の目前にある宮殿を美しいと思うかどうかと訊ねるとする。これに対して私は、-こういうたぐいのものを好まない、かかる物は徒に観る人の眼をみはらせるためだけに造られたものである、と答えるかもしれない」(p.72)とカントが言うとき、あるいは、

「快適なものに対する情意的傾向の関心についてなら、誰でもこう言うだろう、-飢えは最もすぐれた料理人である(ひもじい時にまずい物なし)、また食欲の旺盛な人達にとっては、およそ食べられるほどのものなら何によらず美味である、と。…こういう必要が充たされたときに初めて、多くの人達のうちで誰が趣味をもっているのかどうかを弁別できるのである」とカントが言うとき、「美」と「趣味」はいかなる関係にあると、言っているのだろうか。

 「万能の異才」と謳われ食通としても知られる北大路魯山人は、「美的空間で日常坐臥を満たさねば、美しいものを生み出せない」と、帽子からトイレにいたるまで、あらゆる身の回りの存在を、自己の「趣味」で埋め尽くしていった。彼は「究極の美」へと到達できたのだろうか。それともカントにあっさりと「こういうたぐいのものは好まない」と言われてしまうのだろうか。

「いやしくも美に関する判断(Urteil=judgment)にいささかでも関心(interesse=interest)が交じるならば、その美学的判断(ӓsthetisches Urteil=aesthetic judgment)は甚だしく不公平になり、決して純粋な趣味判断(Geschmacksurteil)とは言えない、―このことは何人といえども認めざるを得まい。趣味の事柄に関して裁判官の役目を果たすためには、我々は事物の実在にいささかたりとも心を奪われてはならない。要するにこの点に関しては、飽くまで無関心でなければならないのである」(pp.73-74)

 とカントは言うが、
さて、
 
●北大路魯山人は、「事物の実在に心を奪われない」心境に達していたのだろうか。

注 趣味を表す英語のtasteは、もともとラテン語のtaxare=触れてみる、調べる、からきた言葉。「味見をする」「味わう」といった、舌で触れて調べる、の意味を根底にもっている。日本語の「趣味」も、「趣」=「しみじみとしたあじわい。おもしろみ」と「味」の合成語であり、おそらくはtasteの意味にそった翻訳と思われる。

第四回 趣味とは、心地よさによって対象を判定する能力であり、その心地よさの対象が美と名づけられる

サブテクスト:Juan Jose Lahuerta『ガウディ バトリョ邸』
       DVD「カーサ・バトリョ」

「趣味とは、或る対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の関心にかかわりなく適意(Wohlgefallen=well pleasure=意に適う、自分の気持ちにフィットする、何の意味もなく気に入る)または不適意によって判定する能力である。そしてかかる適意の対象がすなわち美と名づけられるのである」(p.84)
 
 とカントが語ってから100年を経過したガウディの時代、世の中はいわゆるブルジョアが台頭し、彼らの「趣味」に基づく家づくりが盛んになっていた。商売で儲けた者は商売の精神からくる思い込みが、農業で儲けた者は農業で身に着けた世界観を自らの内的原動力とし、建築家たちに彼らの「理想の家」を造ってくれるよう働きかけたのである。

 ガウディのいたバルセロナには、それぞれの個性を反映したファサードを有する建物が何百と建てられ、それらは「ブルジョアたちが、彼らの新しく近代的な表現と消費というライフスタイルを展示するためのショーウインドーであった」。つまるところ、このバルセロナに乱立した新しいスタイルの家々は、新興階級のそれぞれの出自に特有の「美意識」、悪く言えば「趣味そのもの」の競演だったのである。「奇抜であるがゆえに近代的であり、近代的であるがゆえに奇抜である建築家の狂気によって建てられた家を、その所有者の特質として表現するという気取りに対して」、風刺画家は冷笑を浴びせた。何のことはない、今風に言えば、「悪趣味」だとして断罪したわけである。ガウディはまさにそうした建物を建築した代表者であった。

「趣味判断は認識判断ではない。したがってまた論理的判断ではなくて美学的判断である。なおここで美学的判断というのは、判断の根拠が主観的なものでしかあり得ないということである」(p.70)
「この場合に根底におかれる趣味(Geschmack=taste)の定義は、『趣味とは、美を判定する能力である』という命題である」(p.71)

●ガウディの建築は、まさに「時代の趣味」を彼の天才が突出して表現したものにほかならない。『趣味とは、美を判定する能力である』とカントが言うとき、どの時代の好事家たちのいかなる趣味もまた、一つの判定された美の表出だと考えて良いのだろうか。

第五回 趣味は美を判定する力はあっても、美を生み出す力はない

サブテクスト:岡谷公二『郵便配達夫 シュヴァルの理想宮』(作品社、1992.9)
       DVD「シュヴァルの理想宮」

 「我々は、自分が感じるところの快(Lust=joy)を、趣味判断において必然的なものとして、ほかのすべての人にも要求する。そしてその場合には、あたかも美が対象そのものの性質―換言すれば、対象において概念的に規定された性質であるかのように思いなすのである。しかし美は、主観の感情に関係しない限り、それ自体だけでは無である」(p.98)

「趣味判断の特性は、この判断が主観的妥当性しかもたないにも拘わらず、すべての主観の同意を要求するところにある」(p.217)
フランス南東部ドローム県にある人口千五百の小さな村オートリーヴに住む郵便配達夫シュヴァルは、周辺の石を拾い集めて33年間かけて実に奇妙な建築物を造り上げた。小さな尖塔や突起、彫刻、装飾模様などがぎっしりと建物の表面を覆いつくすこの建築物は「シュヴァルの理想宮」と名づけられた。

 シュヴァルの理想宮は、本人にとっての「快」が、多くの(とくに従来の美意識に支配されている)人達にとっては対極の「不快」であった最適の例である。1960年代になって、理想宮を国の重要建造物に指定しようとの動きが広がったが、国は「一切が全く醜い。田舎者の頭の中に蠢いていた、気違いじみた妄想のどうしようもない寄せ集めだ。こんなものについては《芸術》を云々しないほうがいい」(同書194頁)とまったく取り合わなかった。しかし、1969年5月2日、大新聞「フィガロ」の一面に掲載された時評「崇高なる田舎の郵便配達」をきっかけに、その評価が180度変わっていく。

「作者が33年間の超人的努力を傾け、その哲学、その形而上学、その世界観のすべてを投入したこの宝石、この複雑で、えも言われぬ魅力を持つ作品を指定するのに、美術当局は一体何を待っているのか」(同197頁) 

 ドゴール大統領のもとで文化担当の国務大臣を務めていたアンドレ・マルローは、その年の上院文化委員会で「理想宮とはなにか? それは、素朴派芸術の建築における唯一の作例であります。…素朴派芸術が無視しえない現実となった時代にあって、世界で唯一の素朴派の建築を所有するという幸運に恵まれたのが、私どもフランスであるとすれば、それを指定せず、崩壊するのを待っているなどということはナンセンスでありましょう」(同199-201頁)と応じ、理想宮は1969年9月23日、国の重要建造物として指定されることになった。

 カントは「趣味は、単なる美の判定能力であって産出的能力ではない」(『判断力批判』p.265)といったが、さて、どうだろうか。シュヴァルの一例こそ、趣味が新しい「美」を創造した(産出した)と言えないだろうか。

第六回 美は、善とまったくかかわりがない
サブテクスト:モーツァルト「交響曲40番 ト短調 k.550」
    小林秀雄『モオツァルト・無常という事』新潮文庫、pp.12-13
      井上太郎『モーツァルトと日本人』(平凡社新書、2005年、pp.27-32)

●受講生Nさん「モーツァルトとかなしみの再考」(2012.4.3自主講座発言より)
「3年前からモーツァルトばかり聞いているのですが、人間は美しすぎるものに触れると悲しくなるのではないか。心のなかの悲しみは何が悲しいというのではなく、先験的にもっているのではないか。そこに触れると浄化される。…」

「何か或るものを善と認めるためには、対象がどのような物であるかということを、必ず知っていなければならない、-換言すれば、この対象について概念をもっていなければならない。しかし、何か或るものを美と認めるためには、そのような必要はない。花弁、自由なデッサン、或は曲線をなんということなしにからみあわせた模様、即ち簇葉(そうば)飾りと呼ばれているようなものは、何も意味をもっているわけではない。従ってまた一定の概念によって規定されているわけではないが、それでも我々に快いのである」(p.77)

 美が概念によって規定されていない、ということは、美にはそれを規定する「形相」がないということなのだろうか。
「或人に感覚的満足を与えるところのものは快適(Angenehme=pleasant=心地よさ)と呼ばれる、また彼にとって単に快い(Lust=joy=うれしさ、喜び、歓喜)ものは美と呼ばれる、更にまた彼によって尊重され、肯認されるところのもの、換言すれば彼によってその客観的価値が承認されるところのものは善と呼ばれるのである」(p.82)

 とカントが、美を喜びと重ね合わせて言うとき、それは、プラトンが『饗宴』でディオティマに語らせている「突如として、本性驚嘆すべき美の感得」(210E)に通じるものなのだろうか。

 小林秀雄は、大阪の道頓堀でモーツァルトの40番シンフォニーがなぜか耳に響き渡り、この曲の本質を「疾走する悲しみ、涙は追いつけない」と表現した。涙が追いつけないほどの悲しみとは、究極の美に触れた証なのだろうか。
 敗戦直後に、この40番をレコードで聴いた井上太郎は、モーツァルトの音楽に自らの「生と死」を重ね合わせて涙し、友人は「こんな音楽ってないね」とポツリと漏らした。

 生きることの深奥に、概念化することのできない先験的な秘儀があり、そこに触れたと私たちが感じるとき、私たちは言いようのない深い感動を覚え、涙となって浄化されるのだろうか。

第七回 美の根底には、目的をもたない合目的性がある

サブテクスト:ハイデガーの道具論『存在と時間(上)』(岩波文庫、pp.133-136)
     アリストテレスの道具論『動物部分論』(岩波書店、p.283)
                  『政治学』(岩波書店、p.10)
   プラトン『饗宴』(211B)
●受講生Mさん「NHKヒューマン 『なぜ人間になれたのか』第二回グレイトジャーニーの果てに」…投擲機(trebuchet)の登場 、DVD

「客観的合目的性は、多様なものを一定の目的に関係させることによってのみ、それだからまた概念によってのみ認識せられ得る。すでにこのことからだけでも、美の判定は単なる形式的[主観的]合目的性、即ち―およそ目的をもたない合目的性を根底とするものであり、従ってまた美は善の表象とまったくかかわりのないことが判る。善は客観的合目的性を―換言すれば、対象と一定の目的との関係を前提しているからである」(pp.111-112)

 わたしたちは、所詮は人殺しのための道具に過ぎない戦車や戦闘機、軍艦などに、なぜ「一つの美」を感じてしまうのだろうか。アリストテレス・ハイデガー流に言うならば、それらはいずれも「破壊道具」であり、その「目的」は敵を殲滅すること、結局は「人を殺す」こと、のために存在する。しかし最終的には、政治や経済と同様に、すべての人間が目指すところの「幸せ」へと向かう「目的」を持っているのである。

 古代に発明された投擲機(trebuchet)は、なぜか現代人を魅了し、さまざまな箇所でさまざまな人たちが巨大投擲機を作り、巨石を飛ばし、的となる構造物を破壊するのを嬉々として楽しんでいる。状況が変われば、敵を攻撃する恐ろしい武器になるこの機械を、なぜ人は好み、制作し、大きな石を飛ばして喝采を浴びせるのだろうか。人々が戦車や戦闘機、軍艦にまで通じる破壊機械を「美しい」と感じるとき、それは「人々を幸せに導く」という内在した最終目的、すなわちある種の「合目的性」を見取ってのことだろうか。

 そうではないだろう。おそらく、私たちは、一つの線や色を美しいと思い、仏像の曲線やほおのふくらみを美しいと思うのと同じように、兵器の洗練された「形」の美しさや、投擲機の打ち出した巨石が空中を飛ぶ軌跡の美しさに、感嘆するのではないだろうか。

 「目的をもたない合目的性」とは、それ自身が存在する理由が、それ自身である、ということにほかならない。美は、何のためでもなく、それ自身のために存在する。つまるところ、プラトンが『饗宴』でディオティマに語らせている「それ自身だけで、それ自身とともに、単一な形相をもつものとして永遠にある」(211B)ものが、カントの言いたい美の正体なのだろうか。

第八回 世界のなかで人間だけが、美の理想をもつことができる

サブテクスト:プラトン「利口な鶴の話」(プラトン『ポリティコス』263D)
映画「猿の惑星」(チャールトン・ヘストン主演、20世紀フォックス、1968年)

受講生Oさん:蟻の世界と美

「存在の目的を自分自身のうちに持つところの者すなわち人間だけが、理性によって自分の目的をみずから規定することができる。…それだから世界における一切の対象のうちで、人間だけが美の理想をもつことができる。そしてそれは、叡智者としての彼の人格に具わる人間性だけが、世界におけるあらゆるもの物のうちで完全性の理想を持ち得るのと同様である」(p.123)

 カントのこの言葉は、『純粋理性批判』における「人間だけが一切の生物の究極目的を実現すべき能力を有する唯一の被造物である」(原文425)通じるものだが、この規定には何らの根拠も存在しない。あえていえば、カントの思想の根幹にある「人間中心主義」からの自然な流れである。

 さてカントは、彼の天体論のなかで語っている、他の太陽系に存在するかもしれない生物の存在を、意識しての発言なのだろうか。この大宇宙のなかに、いかなる生物体、叡知体が存在しようとも、美の理想をもつことのできるのは、ひとりこの太陽系第三惑星である「地球」に存在する、私たち人間だけだと、彼は信じていたのだろうか。

 すでにプラトンがソクラテス対話篇の『ポリティコス』において、動物をどのようにして二つに分類するかというテーマをめぐり、若いソクラテスが「人類と、それ以外の畜群」と先走って分けたことに対して、エレアからきた客人が「それは大変な勇み足ではないか」と次のような苦言を呈するのである。

「たいへんな勇み足をやったきみに考えてもらいたいのだが、ことによると次のようなばあいがあるかもしれない。つまり、たとえば鶴がそれに該当するかとも私は思うのだが、また、そのほかにも何か同種のものがいるかもしれないが、ともかく、知性をそなえた動物が人間以外にもなにかいるのだとしてみよう。そして、この鶴などが言葉による区別をきみと同様なやりかたでおこなうばあいもあるとしてみる。そのさい、こういう動物なら、おれたちは偉いのだと言わんばかりに、まず鶴をその他すべての動物に対置されるべき一まとまりの種族と考え、その他の動物は、人間を含めて必ずや畜群という名で呼ぶだろう」(263D)。

 人間を家畜として扱う映画「猿の惑星」は、まさにカント的人間中心主義へのアンチテーゼであろう。さて、私たちはカントのように、美は人間だけの所有物だと言い切れるだろうか。

第九回 整った顔は、精神的に凡たる人間にすぎないことを示す

サブテクスト:プラトン『饗宴』(215B)
      :クセノフォン『饗宴』

●受講生Kさん:平均顔と美の話

 「経験の示すところでは、このようにあくまで整った顔は、内的[精神的]には特色のない平凡な人間にすぎないことを示すのが普通である。思うに…その理由は次のような点にあるのだろう。心的素質のうちでなにか或るものが単に欠点のない人間を作るに必要な比例以上にぬきんでていないと、我々は天才と呼ばれるものから何も期待することができなくなる、自然は天才においてただ一つの心的能力を傑出させるために、一切の心的能力の有りふれた比例から逸脱するように思われる、ということである」(p.127)

 プラトンのソクラテス対話篇の『饗宴』において、「ソクラテスおっかけ」の美男子アルキビアデスは、ソクラテスのことを「彫像屋の店頭に置かれているシレノス像にこの上なく似ている」あるいは「さらにまたぼくは主張する、この人はサテュロスのマルシュアスに似ている」とまで表現している(215B)。シレノスは、山野の精で、馬の耳を持ち低い鼻、毛むくじゃらの醜い老人、サテュロスはやはり山野の精で、こちらは若者だが平らな鼻と尖った大きな耳をもつ山羊との半獣半人である(スペイン映画の「パン・ズ・ラビリンス(パンの迷宮)のパンも同じ仲間」)。

 ソクラテスの風体は、どうみても「美」の対局にある。クセノフォンの『饗宴』において、ソクラテスは参加している人たちに呼びかけて、美男子の誉れ高いものと「美競争」を仕掛けた。彼は、自分の鼻の穴が異様に大きいことを逆手にとって、周囲からたくさんの良い香りを引き寄せることができる、とほらを吹き、出目でやぶにらみを「人の見えない角度まで見通すことができる」と嘘ぶく。

 ソクラテスがもし美男子だったら、ソクラテスは存在しただろうか、と問うのは楽しいことである。ソクラテスは醜男だった故に、ソクラテスになった、のではないだろうか。彼が、アルキビアデスのような今で言えば「かっこいい」美青年であったとしたならば、まったく違った人生を歩んでいたのではないか、と考えても、あながち間違いではなかろう。
 
 カントの言うように整った顔が凡たる証に過ぎないのならば、均整のとれた美形は美という名にはふさわしくないことになる。八頭身という美のもとになったミロのヴィーナスは、ひとつの「凡」の典型的な例に成り下がるだろう。美はむしろ、ひとつの「突出」なのだろうか。

第十回 石器は美しくないのか、花は美しいのか

  サブテクスト: 映画「ニーチェの馬」(ダル・ベーラ監督)

●受講生もう一人のNさん:ニーチェの馬再考

 「美は、合目的性が目的の表象によらずに或る対象において知覚される限りにおいて、この対象の合目的性の形式である」(p.129)

 「チューリップは美しいと言われる。それは我々が或る種の合目的性―換言すれば、我々がこの花を判定する場合のように、いかなる目的にも関係せしめられないような合目的性が、この花の知覚において見出されるからである」(同p.129)

 このカントの言う美を、仮に第七回で引用したプラトンの『饗宴』におけるディオティマの言葉のようなものだとしよう。では、美が「永遠に存在して生成も消滅もせず」そこにあるとしても、私たちはどのようにして、それを「美」だとわかるのだろうか。
ニーチェは、「私たちがそれを美だとわかるのは、かつてそれを見たことがあるからだ。ただ一度しか見たことのないものを、私たちは美だと思うだろうか」との謎かけをしている。映画「ニーチェの馬」でダル・ベーラ監督は、このニーチェの言葉を別の文脈で巧みに語りかけてはいないだろうか。

 同作は、1889年1月3日にイタリア・トリノの広場で泣きながら馬の首をかき抱き、そのまま発狂したと言われるニーチェのエピソードに着想を得て製作されたものである。トリノ市の往来で騒動を引き起して二人の警察官の厄介になったということ以外には正確な事情が明らかになっていないこの事件は、カルロ・アルベルト広場で御者に鞭打たれる馬を見て奮い立ったニーチェがそこへ駆け寄り、馬を守ろうとしてその首を抱きしめながら泣き崩れ、やがて昏倒したという逸話として、しばしば繰り返されている。ダル・ベーラ監督はこの逸話から霊感を得たのか、暴風が吹き荒れるある田舎を舞台に、疲れ果てた馬、飼い主の農夫とその娘が過ごす6日間の物語を、台詞を徹底的に排除した白黒映像で描きだしている。

 興味深いのは、東京の試写会に招かれたダル・ベーラ監督がインタビューに答えた中身である。彼は「私たちの生きるということにおけるロジックを明らかにしたかった。もし私たちがこの作品の農夫と同じような状況に置かれ、同じような場面に組み込まれたら、私たちは同じような行動をとるのではないだろうか。これが、私の考えるロジックです」と語っている。

 美もまた、同じような状況下で、人々に読み出される一つのロジックのなかにあるのではないだろうか。

 アインシュタインは「単純なものは美しい」という有名な言葉を残している。わたしたちは、複雑なものより、単純なものに美を感じがちである、という特質をもっているように見える。単純なものこそ、「いかなる目的にも関係せしめられない合目的性」を秘めているからなのではないだろうか。