平成24年度第Ⅲ期講座 みんなカントが好きだった
★平成24年度第Ⅲ期講座 みんなカントが好きだった2013.1~3
は、終了しました。
内容は、内外の10人の哲学者たちによるカントへのオマージュです。毎回のテクストと、できる限りの講座における対話の内容を紹介しています。
各回の詳細は、以下をクリック下さい。
1、西田幾多郎 「道徳維持者としての神」説への反論 2013.1.8 対話つき
2、ショーペンハウエル カントの言う「物自体」とは意志である。2013.1.15 対話つき
3、ニーチェ 「物自体」は「意味自体」と同じく背理である。 2013.1.22
4、ウィットゲンシュタイン 右手の手袋はいかにしたら左手にはめることができるか 2013.1.29
5、ヘーゲル カントは弁証法の本能的発見者である。 2013.2.5 おしゃべり付
6、和辻哲郎 人は本性的に受容的であり、幸福は偶然に落ち込んでくる。2013.2.12 「イデーを見る眼」について
7、ハイデガー カントは世界という現象を見なかった。2013.2.19
8、ラッセル カントは人なみはずれて心理学にくらかった。2013.2.26 対話付き
9、ハーバマス いったい誰がカントなしで済ますことができるだろうか。2013.3.5 倫理と道徳をめぐる議論
10、ハンナ・アーレント カントの『判断力批判』の第一部は、じつは政治哲学である。2013.3.11 作成途上
★受講生にはあらかじめ、全10回分の次のような内容のレジメを配布しています。
後世への影響を考えると、カントは古代ギリシャのソクラテスやプラトン、アリストテレスに匹敵すると言っていいでしょう。多くの哲学者がカントに啓蒙され、刺激され、触発されて、新しい哲学を作り上げてきました。みんなが、カントを好きだったのです。愛すべきカントが、どのように捉えられ、そこから新しい哲学がどのように花開いてきたのか、皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。
<講座10回分の内容>
1、 西田幾多郎
「道徳維持者としての神」説への反論
(『善の研究』岩波文庫、pp.121-126)
「古来神の存在を証明するに種々の議論がある。…そのほか全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいうところに由れば、我々人間には道徳的要求なるものがある、即ち良心なる者がある、然るにもしこの宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かったならば、我々の道徳は無意義なものになる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬというのである。カントの如きはこの種の論者である。しかしこれらの議論は果たして真の神の存在を証明し得るだろうか。…全知全能の神なるものがあって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。此の如き考は単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神その者を自己の直接経験において直にこれを証明したのではない」(『善の研究』pp.121-123)
2、 ショーペンハウエル
カントの言う「物自体」とは意志である。
(『意志と表象としての世界(正編Ⅲ)』白水社、p.275)
「なるほどカントは、現象こそ表象としての世界であり、物自体こそ意志であるという認識には到達しなかった。けれども彼が示したのは、現象している世界は、客観によって条件づけられているのと同じほど、主観によっても条件づけられているということである。…彼は物自体をじかに認識したわけではない。けれども彼はこの認識に対して、偉大で画期的な歩みを進めたのである。それは彼が、人間の行為には否認することのできない道徳的な意義があり、この意義は現象のもろもろの法則とはまったく異なっていて、それらに依存せず、それらにしたがって説明することもできず、むしろ物自体にじかに触れている或るものであると述べることによってであった」(『意志と表象としての世界(正編Ⅲ)』白水社、pp.24-25)
3、 ニーチェ
「物自体」は「意味自体」と同じく背理である。
(『権力への意志(下)』ちくま学芸文庫、pp.92-93)
「ひとは、物自体がどのような性質のものであるかを知りたがるが、ところが、物自体なるものはなんらない! しかも、たとえそれ自体でのものが、無条件的なものがあったとしても、まさにこのゆえにそれは認識されることはできない! 何か無条件的なものは認識されえないのである、さもなければそれはまさに無条件的ではないであろう! しかし、認識するとは、つねに、「なんらかのものに対しておのれを条件づける」ということであるーー。…『物自体』は、『意味自体』、『意義自体』と同じく背理である。いかなる『事実自体』もなく、或る事実がありうるためには、一つの意味がつねにまず置き入れられていなければならない。『これは何か?』とは、何か当のものとは別のものからみられた一つの意味定立である」(『権力への意志(下)』pp.92-93)
4、 ヴィットゲンシュタイン
右手の手袋はいかにしたら左手にはめることができるか。
(『論理哲学論考』中央公論、p.422-423)
「人は右手と左手とを重ね合わすことはできないというカントの問題は、すでに平面においても、それどころか、一次元の空間においても起こりうるのである。一次元における二つの合同の図形a(〇×)とb(×〇)とは、この空間の外にもちださないかぎり、重ね合わすことはできない。右手と左手とは、実際に完全に合同である。そかも、それを重ね合わすことはできないが、このことはしかし、完全に合同であるということにとっては、どうでもいいことである。
右手の手袋は、もしも四次元の空間では裏返しにできるとすれば、左手に着用できるであろうから」(『論理哲学論考』中央公論、p.422-423)
5、 ヘーゲル
カントは弁証法の本能的発見者である。
(『精神現象学序論』中央公論、pp.126-127)
「またつぎの点に注意しなければならない。三重性の原理は、カントでは、いわば本能的に再発見されたばかりであり、まだ死んでいて、概念的に把握されてはいないものであったが、その後それの絶対的意義にまで高められるようになった。ために、真実の形式が同時に真実の内容をともなって立てられ、学問の概念が現れ出るにいたった。…真なるものは、本来、その時がくれば世に浸透していく。このことをわれわれは信念とせざるをえない。真なるものは、その時がきたときにのみ現れるのであり、したがって、決して早く現れすぎることも、未熟な公衆しか見いださないということもない。また、真理を語ろうとする個人にとっても、公衆に浸透してゆくというこの効果が必要なのであって、自分だけのことがらにすぎなかったものが、それによって真理として確かめられ、まだ特殊なものでしかなかった確信が、一般的なものとして経験されることになるのである」(『精神現象学序論』中央公論、p.126,p.146)
6、 和辻哲郎
人は本性的に受容的であり、幸福は偶然に落ち込んでくる。
(『和辻哲郎全集9』岩波書店、p.269)
「我々理性的なる『人』は、単にただ自発的でのみあるのではない。人は本姓上自発的。受容的なのである。受容的なる者、すなわち感性的なる者である限り、人は常に有限な、欠乏的な、足りない、従って足らせようと要求するところの者(ein bedϋrftiges Wesen)であって、理性といえどもこの受容性の側からの充足の要求を拒むことはできない。そこでこの足りなさを充たすように我々の全存在の上へ偶然的に落ち込んで来て、そうしてこの存在を足らせるところの、外からの流入、-すなわち偶然的に仕合わせることーそれが幸福なのである」(『和辻哲郎全集9』岩波書店、p.269)
7、 ハイデガー
カントは世界という現象を見なかった。
(『存在と時間(下)』(岩波文庫、p.43)
「なるほどカントは、自我を思考から括りだすことを避けましたが、といって<わたしは思う>自体をば、その全面的な本質の成立内容のなかで、<わたしは何かを思う>として手掛かりをつけることもなく、またことに<わたしは何かを思う>にとっての存在論的「前提」を、自己の根本規定性とみることもしませんでした。なぜなら、「わたしは何かを思う」という手掛かりもまた、「何か(エトヴァス)」が無既定のままだから、存在論的に規定しつくされていないからです。その何かが、内世界的な存在するものと解されるならば、そのばあい口にださないでも、世界という前提がひそんでいるのです。そしてまさにこの[世界という] 現象こそ、それがもしかりに<わたしは何かを思う>といったもので在りうるとすれば、<わたし>という存在構えを、ともに規定しているのです。<わたし=と言うこと>は、「わたしは=ひとつの=世界の=なかに=いる」として、そのつどわたしである存在者を意味しています。カントは、世界という現象を見なかったし、「わたしは思う」の先天的な内実から「諸表象」を遠ざけても、十分に整合的でした。しかしそれによって自我は再び、存在論的に全く無既定な仕方で、表象に伴う孤立した主観へと、押し戻されたのでした」(『存在と時間(下)』(岩波文庫、p.43)
8、 ラッセル
カントは人なみはずれて心理学にくらかった。
(『外部世界はいかにして知られうるか』中央公論、p.190)
「心理学の本を読んだことのない人には、あらゆる知覚される対象が組みこまれていると考えられる、すべてを包含する一つの空間を構成するために、いかに多くの心の働きが必要であるかということがほとんどわからない。たとえば、カントは人なみはずれて心理学にくらかったのであるが、空間は「無限の与えられた全体」であると述べた。しかし、ちょっとでも心理学にもとづいて反省してみると、無限の空間が与えられているのではなく、また与えられているといえる空間は無限ではないこともわかる。…まずはじめに注意しなければならないことは、感覚によって空間も異なるということである。たとえば、視空間は触空間とはまったく別である。じっさい、幼児のときの経験によって初めて、私たちはこれら二つの空間を相関させることを学ぶのである」(『外部世界はいかにして知られうるか』中央公論、p.190)
9、 ハーバマス
いったい誰がカントなしで済ますことができるだろうか。
(『未来としての過去ーハーバマスは語る』未来社、pp.146-147)
「意識哲学は、デカルトからカントを経てフッサールに至る認識論上の根本問題から出発して、主観性、つまり表象する主体の客体に対する彼自身の表象との関係を考察してきたのだが、それは我々がいまだに引き合いに出す豊かな伝統である。いったい誰がカントなしで済ませられることができるだろうか。意識哲学に対する偉大な批判者―一方におけるハイデガー、他方におけるヴィトゲンシュタインーは今日では、いわば過剰評価され、コンテクスト主義的なな解釈という形で第二の歴史主義に合流する語用論的な転換を開始している。総じて言語哲学は、もはや、世界創造の主体―あるいはその環境を内面的に写し取るシステムーというものを前提とはしていない。それ故、言語哲学は、すでに言語的に解明され、間主観的な形で共有された生活世界の内に存在している、コミュニケイション的に社会化された主体と主体との間の合意という新しいパラダイムによって古くからの問題の水準に再び到達し得たのかどうかという事が、問われることになる」(『未来としての過去ーハーバマスは語る』未来社、pp.146-147)
10、ハンナ・アーレント
カントの『判断力批判』の第一部は、じつは政治哲学である。
(『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局、p.152)
「あなた方は、『なぜ一体人間が現存する必要があるのか』という問いを提起しうるのと全く同様に、さらに続けて、なぜ樹木が現存する必要があるのか、なぜ草の葉やその他が現存する必要があうのか、等々と尋ねうることに注意すべきである。
換言すれば、『判断力批判』の諸主題―自然の事実とか歴史上の事件とかいう特殊的な事柄、その特殊的なものを扱う人間精神の能力としての判断力の能力、そしてこの能力の機能する条件としての人間の社交性、すなわち、身体と自然的欲求とをもつという理由からだけでなく、厳密には精神的諸能力のためにも、人間が仲間に依存しているという洞察―これらの主題はすべて卓越した政治的意義を有しており、政治的な事柄にとって重要である。実はこれらは、カントがその批判の仕事(das kritische geschӓft)を片付けた後、年老いてからようやくそれに着手したものではなく、その遥か以前からカントの関心事であった」(『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局、pp.14-15)