平成24年度第Ⅲ期モーツァルトⅢ-天才を育んだ処世の技法

平成24年度第Ⅲ期講座「しゃべり場」モーツァルト
       -天才を育んだ処世の技法

は、2013年1月18日(金)から始まり、同3月15日(金)で終了しました。ホームページの作成が追いつかず、ご期待に応えられず、申し訳ありません。

1、父・レオポルトの教育術「自分自身を知れ、他人を学べ」 2013.1.18
2、ヨーゼフ2世とモーツァルト 2013.1.25
3、サリエリとモーツァルト 2013.2.1 準備中
4、モーツァルト一家の旅行術「結局、残ったのは大きな借金だけだった」 2013.2.15
5、父・レオポルトの処世術「音楽家たちを翻弄した戦争の荒波」 2013.2.22 作成中
6、モーツァルトの作曲技法 2013.2.29 作成途上
7、モーツァルトの処世術 ああ、なんという愛(いとし)い人なのでしょうか。2013.3.7 作成途上

講座の概要全体は次の通りです。

 父、母、友人らとの間に交わされた膨大な手紙の数々は、モーツァルトの作曲技法の秘密を垣間見させるだけでなく、一家の教育観から世界観、哲学観までを明らかにしてくれます。父・レオポルトは、華やかなパリでの社交界の生き方や薬剤の細かな調合の仕方に至る詳細な指示をモーツァルトに与えていました。天才の音楽を楽しみながら、モーツァルトをめぐる時代の話にも花を咲かせましょう。

●今回のテクストも、モーツァルト本人と父・レオポルトらとの間で交わされた手紙です。『モーツァルト書簡全集(Ⅰ~Ⅵ)』(海老沢敏・高橋英郎編訳、白水社)から、選択したタイトルに合った手紙を抜粋するようにしています。

<講座8回分の内容>

1、 父・レオポルトの教育術

「息子よ!おまえはやることなすことすべて、すぐカッカとし、またせっかちです! おまえは幼いころや少年時代とは、今や性格がまったく変わってしまいました。幼児の時も少年になってからも、おまえは子供っぽいというよりもずっと生真面目ダッタシ、クラヴィーアの前に座ったり、そうでなくてもなにか弾く必要があるときには、誰もほんのちょっとした冗談もおまえに言うのはとてもできなかったのです。…でも今おまえは、私が思うに、あまりにも性急に最初の挑発に乗ってしまって、おどけた調子で誰にでも返事をしてしまうようだ。…おまえをべたほめし、高く買い、天にまで持ちあげて賞讃する人間には、もう欠点もみとめす、すっかり打ち解けて好きになってしまうというのが、まさにおまえのお人好しの心なのです。ところが小さいころのおまえは、人があまりほめすぎると泣き出してしまうほどの極端な謙虚さを持っていたのだ。いちばん重要なわざは、自分自身を知ることを学ぶこと、そしてその上で、愛する息子よ、私がしているようにし、個人をしっかり知ることを学ぶよう研究してみることです」(ザルツブルクの父からからマンハイムの息子へ。1778年2月16日)
「息子よ、神はおまえにすぐれた理性を与え給うたのだ。その理性をおまえが正しく用いるのをしばしば妨げているのには、私が見るところ、原因はたった二つだけある。だって、それをどう用いるべきかーまたどうやって人間を知ることができるのかは、おまえは私を通じて十分に学んだものだった。私がなんでもほんとによく言い当てたり、予測したりしたものだから、おまえはよく冗談に言ったものだった。『パパは神さまのすぐ次だね』。こうした二つの原因はいったい何なのか、どう思うかね?-やってごらん、おまえ自身を知ることを学びなさい。愛するヴォルフガングよ。-おまえはそれを見出せよう。おまえはちょっとばかり自惚れが強すぎるし、利己心がありすぎる。それにおまえはすぐにあまりにも打ち解けてしまいすぎるし、誰にでも心を開いてしまう。要するにだ!おまえは自由で自然でありたがっているので、あまりにも率直になりすぎてしまうのだ」(ザルツブルクの父からからマンハイムの息子へ。1778年2月23日)

2、 モーツァルト一家の旅行術

「特に注意してほしいのは、マンハイムを発つ前に、トランクと小長持ちの上に貼り紙かカードを一枚しっかりと貼りつけさせ、その上にW・A・M、ないしフルネームで、ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト殿と書くのです。そうすれば、突発的な事故に対して万事書き出されているので、神様が防いで下さるだろう厄介な自己のときに、なんでも尋ね当てることができます」(ザルツブルグの父・レオポルトより。マンハイムの息子へ。1778年2月28日、3月1日および2日))
「ぼくらにはたくさんのこまごましたものがあって、ぼくらの(馬車の)座席にならとても都合よくつめ込むことができますが、乗合馬車だとそうするわけにはいきません。それに、ぼくらは二人きりで、気楽におしゃべりができます。ぼくは断言してもいいのですが、もしぼくらが乗合馬車で実際に行った場合、いちばんの気がかりは、思ったこと、折にふれたことを語り合えない悲しさです」(マンハイム。ザルツブルクの父へ。1778年3月11日)

3、父・レオポルトの処世術

 「私どもがこの世に生きておりますのは、たえず勤勉に学ぶためであり、また議論をたたかわせることによりおたがいに啓蒙しあい、学問ならびに芸術をたえず前進せんがために努力を続けるためであります。ああ、いとも尊敬すべき尊師とお話しし、また論議をたたかわせることができますよう、もっとお近くにいたいと、私は幾度となく望んでみたものでありました。私が住んでおります国では、…音楽はまことに恵まれぬ命運にあります。劇場については、俳優が不足しているため、うまく行ってはおりません。音楽家たちもおりませんが、彼らが給料がよいのを望んでいる以上、これからもそうたやすくは得られないでありましょう」(ボローニャのマルティーニ師へあてた息子・モーツァルトの名で書いたレオポルトの本音。1776年9月4日)
 「ああー《おまえたちはお金を得ようと努めねばならぬ》…おまえはマインツ選帝侯のところで自分の演奏を聴いてもらうだけでなく、引き出物を現金でもらうようにすることを心がけなければいけないし、それにもしとにかく可能なら、コンサートを、それも町のなかでできるようにしなければいけません。というのは、町には多くの貴族がいるし、政府も全部そこにあるからです。…あらゆる場合に、《時計》を貴族たちのあいだで《引き取って》もらうよう動いてくれる貴婦人をだれかさがしてみることです」(ザルツブルクの父から、マンハイムのモーツァルトへ。1777年11月20日)

3、 父・レオポルトの社交術

「お前が一覧表でもっているすべての方がたは、身分の高いお人たちであって、おまえのことを思い出してくれるだろうし、おまえも顔を出し、かつ遠慮なく表敬訪問し、卑屈にならずに遠慮なく、しかも礼儀を忘れずに援助を乞う必要があります。これは、おまえにはっきり言っておくが、けっしてやさしい仕事ではありません。こうしたお人たちとお話しできるなんて、いつでもあることじゃないからです。ただとても大切なのは、こうした慇懃さにはフランス人たちがびっくりするくらい夢中になり、こうした重要人物たちや彼らの知人が突然みんなおまえの友人になってしまうのです」
「さて、当時私たちが知り合ったほかの人たちの名前をなお若干書き出しておきましょう。…ハープ奏者…お前も知ってのとおり、愉快な道化者です。…氏、うぬぼれ屋のチェロ奏者です。ヴァイオリン奏者、…劇場等の歌手。…作曲家。等々。…こうした人たちとのつきあいはなんの得にもならず、それどころか、…害になるだけだというのはお前も知っています。…身分の高い人たちとはいつでもほんとに自然に振舞ってよいが、ほかの人たちとは英国人のように振舞うのです。これは私のおまえに対するお願いです。あんまり正直にしてはいけません!床屋やほかの奉公人たちの前では、お金も、指輪や時計も見せてはいけないし、放っておくなどとんでもないことです。それにまた、《友だちの前でも》、いつおまえが《金をもらったか》、あるいは《どのくらい金をもっているか》については《なにも気どられないよう》にして下さい」(ザルツブルクの父より。マンハイムの息子へ。1778年2月9日)

4、 モーツァルトの交友術

 「ぼくはれっきとしたモーツァルト、若くて思慮深いモーツァルトです。ですから、熱中のあまりときどきはめをはずすことがあっても、お許しいただけると思います。…ぼくにはいろいろと欠点がありますが、なかでもこういう欠点をもっています。つまり、ぼくを知っている友人たちは、ぼくをわかってくれているのだ!-だから多言を要しない、と常に信じてしまうことです」(マンハイムからザルツブルクの父へ。1778年2月22日)
「(プラハは実に美しく、気持ちのよいところだが)やはりぼくはヴィーンがとても恋しくてたまらないんだ。信じてくれたまえ、そのおもな理由は、まさにきみの家なんだよ。-ぼくがヴィーンに帰ったあと、きみの貴重な仲間たちと楽しむ時間がほんのちょっとしかないこと、そしてそのあとずっと長い間―ひょっとして永久にその楽しみを諦めなければならないのかと思うとーそのときはじめて、ぼくがきみの家族全体に抱いている友情と尊敬を完全に感じるのだ。さて、ごきげんよう、最愛の友よ、最愛のヒンティーホンキー君!-これが君の名前だ、知ってるだろうが。ぼくらは旅行中みんなに名前をつけたんだ」(プラハからヴィーンの親友フォン・ジャカンに。1787年1月15日)

5、 モーツァルトの作曲技法

「ぼくは作曲家で、楽長となるように生まれついています。神さまがこんなにも豊かに与えてくださった作曲の才能(と高慢でなくそう言えます。いまほどそれを感じていることはありませんから)、それを埋もれさせてはいけませんし、埋もらせることはできません。…実を言えば、作曲のためならクラヴィーアを犠牲にしてもいいくらいです。クラヴィーアはぼくの余技にすぎませんからね」「みんなぼくの作品がパリで特に受けるだろうという意見です。その点ぼくは全然心配していないのは確かです。というのは、御存知の通り、ぼくはどんな様式の作曲でも、かなりうまく取り入れたり、模倣したりできますからね」(マンハイムよりザルツブルクの父へ。1778年2月7日)
「ぼくはバッハによって実にすばらしく作曲されている『どこから来たのかわしにはわからない』云々のアリアも、練習のために書きました。そのきっかけは、ぼくがバッハの曲をとってもよく知っているし、たいへん気に入っていたし、いつも耳のなかで鳴っていたからです。それをすっかり無視して、バッハのとはまったくちがうアリアが作れるものかどうか、試してみたかったからです。-結局、まったく似ても似つかないもの、ぜんぜん違うものができ上がりました」(マンハイムよりザルツブルクの父へ。1778年2月28日)

6、 モーツァルトの家計術 

「お前の弟が家に必要な家財道具一切合切がついた立派な住居を持っていることは、家賃を460フローリンも支払っていることからお前にも分かるでしょう」(ウイーンの父からザルツブルクの姉ナンネルあて。1785年2月26日)
「私の現状は、どうしても借金せずにはいられないほど困窮しています。-でも一体、だれに頼ったらよいのでしょうか?あなたを措いて、最上の友よ、ほかにだれひとりいません!-せめて友情の表われとして、別の方法によってお金を調達していただけたら!-むろん、利息も喜んでお支払いしますし、それに私に貸してくださるかたには、もちろん私の性格と年俸とが充分にその保証になると信じています」(ウイーン。プフベルクあて。1788年6月27日)
「家計がぎりぎりまで追いつめられて、心労と不安が絶えません。そこでいまはこの二枚の質札を、なにがしかのお金に替えられるかどうかにかかっています」(ウイーン。プフベルクあて。1788年七月初め)
「ぼくの宮廷努めの件についてお答えすれば、皇帝はぼくを御自身皇室にお抱えになられた、つまり正式に法令で布告されたのです。でも、さしあたってたったの800フローリンです。-とはいえ、だれも皇室でこれだけ多くもらっている人はいません」(ヴィーンのモーツァルトからザルツブルクの姉・ナンネルにあてた手紙。1788年8月2日)

7、 モーツァルトの哲学

「ぼくは詩的なものを書けません。詩人ではありませんから。ぼくは表現を巧みに画きわけて影や光を生み出すことはできません。画家ではないからです。そればかりかぼくは、ほのめかしや身ぶりでぼくの感情や考えを表すこともできません。ぼくは踊り手ではありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから」(マンハイムからザルツブルクの父へ。1777年11月8日)
「ぼくには信頼のおける三人の友人がいます。しかもそれらは力強い、けっして克服されることのない友人たちです。つまり、神と、あなたの頭脳と、ぼくの頭脳です」(マンハイムからザルツブルクの父へ。1778年2月28日)
「―死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はおわかりですね)神に感謝しています。-ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。でも、ぼくを知っている人はだれひとり、付き合っていて、ぼくが不機嫌だとか悲しげだとか言えないでしょう」(ウイーンからザルツブルクの父へ。1787年4月4日)