平成25年度第Ⅰ期講座 正義のアイデアⅠ
平成25年度第Ⅰ期 哲学の楽しみⅠ 正義のアイデアⅠ
が、2013.5.7(火)から以下のような形で進められています。
1、不正義ほど理解できるものはない 2013.5.7
2、理性は正義をもたらすか 2013.5.14 対話つき
3、正義の判断、不正義の判断 2013.5.28 対話付き
4、正義の社会契約論 2013.6.4 「貧困の対極は富ではなく正義である」
5、正義にはいくつかの異なった意味がある 2013.6.11 「無関心というアイデンティティー」対話付き
6、三人の子どもと一本の笛 2013.6.18 「ハイデガーさらにはアリストテレス」対話付き
7、より良いとより賢いは同じか 2013.6.25 「アリストテレスそしてウイトゲンシュタイン」
8、真の倫理的問いとは何か 2013.7.2 キルケゴールとドン・ジョヴァンニ」欺かれるものは欺かれぬものよりも賢く、欺くものは欺かないものよりも善い
9、理性的な人々とは誰のことか 2013.7.9 予定稿
★受講生には、前半五回の概要を含めた以下のようなレジメをお配りしてあります。
世の中は「むごい」ことや「ひどい」ことに満ち溢れ、「不公平」なことや「不平等」ばかりが目立ついびつな「かたち」になっているのではないでしょうか。「正義」はいったいどこにあるのでしょう。ノーベル経済賞学者アマルティア・センの『正義のアイデア』をテクストとして、「正義」とは何か、私たちはどこに「正義」を求めればいいのか、ご一緒に考えて行きたいと思います。
テクスト:アマルティア・セン『正義のアイデア』(池本幸生訳、明石書店)
<前半5回の概要>
1、不正義ほど理解できるものはない
「『子供たちが生きている小さな世界の中で、不正義(injustice)ほどはっきりと理解でき、感じ取れるものはない』とチャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』に登場するピップは言う。私は、ピップは正しいと思う」(同書序文 p.1)。
何が正義か、正義とは何か、は、まさにソクラテスがプラトンの『国家』(藤沢令夫訳、岩波文庫、pp.24-31)において立てた問いであり、いまだに答えがありそうで現実には見つからない問いである。そのソクラテスは有名な「悪法も法である」の言葉を残し、正しくない法も、法として共同体の規則である以上、それは守らなければならないと、毒盃をあおいで死んだ。彼の行為は、正義に適っているのだろうか。現代の我々からすれば、どう考えても、彼は不条理のもとで死んだとしか思えない。古代ギリシアの世界においてさえ、ソクラテスの死刑を知った子供たちは、それをはっきりと「不正義だ」と感じたのではないだろうか。
現実の私たちの世界も、不条理(absurd:こんなのおかしいよ、やってられない、の感覚)に満ちている。不条理は、不正義ではないかもしれない。しかし、それは、理屈に合わないことであり、その不条理を身に受けるものたちにとってみれば、正しくないことが起きているが故に、不正義と実質的に等しいのではないだろうか。ディケンズの『大いなる遺産』にならって、第一回目は日常生活のなかで、体験し、見聞きしているさまざまな不条理、不正義を机上に乗せて、現実社会の問題点を抉り出してみたい。
[注]: injusticeは、justiceに、ラテン語系の接頭辞in(無、不)がついた言葉で、不正義、不公正、不公平など、訳者によってさまざまに訳されている。原語の意味を正確にとらえるならば、「正義不在」ないし「正義の無い状態」、と言うのが近い。
justiceはjust(公正な、公平な、正しい)+ice(行為、状態、性質)
justはjustus(ラテン語)より。⇔ unjust, unfair
2、理性は正義をもたらすか
「本書の多くは、カントの基本的な洞察の影響を強く受けている。すなわち…『理性を世界にもたらすことが、形而上学の問題ではなく、道徳の問題となり、人間の希望であると同時に仕事となる』。…『理性的でないこと』に溢れている世界であっても、理性は正義を理解する上で中心的な位置を占めるのである。さらに言えば、そのような世界だからこそ、理性はとくに重要なのである」(同書序文 p.14-17)
「間尺に合わない」という言葉がある。「割に合わない」「損になる」という意味である。定規できちんと測れない部分は勘定に入れない、ということであり、簡単にいえばはみ出した部分を切り捨てるから、その分だけ損をする、ことになる。これは、ギリシア語のロゴス(logos)、つまり、比、割り切れること、から転じて「理性」の意味を持つようになったことに見事に通じている。割り切れない、ことは、非理性的であり、私たちは、割り切れることを、理性的、とすることに慣れてしまっている。割り切れることは、理解できることであり、それ故、理に適っている、間違いない、正しい、と言葉の連想が続く。
カントの理性は、超感性的な世界、すなわち形而上学のレベルから、私たちの感性的世界すなわち経験的な世界を統一した「物差し」としてくくってくれる、善を判断する道具として機能している。カント的な理性の導きに従えば、私たちは「理性的でないことに溢れている現実の世界」を、いつかはすべての人類が最終善へと到達するのだという、希望、夢といってもいいが、を与えてくれているのである。
このカント的な楽観主義が正しいかどうかは、もちろん多大な議論がある。しかし、アマルティア・センはあえてこのカント的な理性の力の存在を肯定することを、彼の議論の始まりに置くのである。この世は「非理性的なこと」に満ちている、だからこそ、私たちは逆に理性の力によって、その「非」を正しい方向へと導けるのだ、と信じたいのである。
センが引用した言葉の中で、「希望であると同時に仕事になる」の部分はとくに重要である。つまり、私たちが日常的に行うべきことは、非理性的なことどもの一つ一つを、理性という線路に乗せていくこと以外にない、ということだからだ。それはつまり、目の前の不条理に棹をさすこと、棹をさすよう不断の努力をすること、にほかならない。
カントが『純粋理性批判』の第一版序文(1781年)の冒頭に掲げた次の言葉を思い出したい。
「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている。即ち理性が退けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である(篠田英雄訳、岩波文庫、p.13)。これは決して形而上学的な問題に限らない。経験を超えて理性は目の前の不条理への解答を模索するのである。
「18世紀のイギリスの強力な裁判官であったマンスフィールド卿は、よく知られているように新任の植民地総督に対して次のように助言した。『正義が要求するとあなたが考えることについて熟慮し、それに従って決定しなさい。しかし、その理由を述べてはなりません。あなたの判断はたぶん正しいでしょうが、あなたの理由は確実に間違っているからです』。…正義の理論の要件は、まさに正義と不正義の判断において理性を働かせることである」(p.36)
何が正しいかの判断は正しくても、その理由が間違っている、とは一体どういうことだろうか。私たちが世の中で起きている出来事に対して、何らかの発言・行為・行動を取ろうとしたとしよう。その場面においてある言動を私たちが正しいと判断するとき、私たちはなんらかの根拠によるか、「直感」(心への直接的な働きかけにより感じること)によるか、のどちらかに拠っているだろう。根拠は、具体的にあげられるものであり、その根拠に対して他者は別な根拠によって反論することができる。直感の場合は、しばしば、根拠があいまいである、と批判されたり、退けられたりする、可能性をもつ判断である。直感は体験依存であり、個々の人々の人生経験に深く根ざしているが故に、非経験者との共通了解が得られにくいのである。
カントの図式に従えば、私たちの認識は、感性、悟性、理性の三段階を通ることによって、動物的な単純体験世界から、神の足元に達し得る理性的洞察の世界にまで到達することができる。理性によって、物事の本質に到達する力を「直観」と名づけ、単なる「感じ」の「直感」とは区別される。こちらの「直観」は「直知」であり、経験の蓄積に由来する「感じ」を飛び越える。
正しいか、正しくないかの判断を迫られているとき、自らの判断に対して、あれこれ考え、何らかの理由づけを行ったとしても、その多くは「あてずっぽ」に過ぎない可能性が高い。しかし、「直感」ではなく「直観」が働いているとき、私たちの中ではいわば理性が起動しており、単なる「あてずっぽ」が真理を掴む。センは、そうした私たちの潜在的な力、すなわち「理性の力」を信じ、「グローバルな民主主義」の存立可能性を「直観」しているように思える。
直感:説明や証明を経ないで、物事の真相を心でただちに感じ知ること。すぐさまの感じ。(広辞苑)
直観:[哲](intuition)一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケー(注:対話)を介してのイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質的直観等。(広辞苑)
「社会正義については長年にわたって議論されてきたが、18~19世紀のヨーロッパにおける啓蒙運動の時代に、ヨーロッパとアメリカで起こりつつあった変化を求める政治状況と、社会経済的変容によってその議論は大きく進んだ。当時の急進的な哲学者の間には正義の推論に関して二つの異なる考え方があった。この二つのアプローチの違いは、もっと注目されるべきだと私は信じているが、それほどには注目されてこなかった。…一つのアプローチは、17世紀のトマス・ホッブスに始まり、…カントがさらに発展させた『契約論』的な考え方と関連している。…アダム・スミス、…カール・マルクス、…これらの思想家たちは、正義について非常に異なった考え方を持ち、社会の比較を行うために非常に異なった方法を提案した…」(pp.38-39)
トマス・ホッブスは、国家を怪物に例えた『リヴァイアサン』のなかで、『契約論』の考え方を明確に打ち出した。ホッブスによれば、「国家」(コモンウエルス commonwealth)とは人間を模倣した「人工人間」であり、「主権」(ソヴリンティ sovereignty)が人工人間の「魂」、「富」は体力、「法」は意志、etcとされる(永井道雄責任編集「世界の名著28ホッブス」中央公論社、p.53)。その国家は、次のように「契約」の考え方に沿って定義される(同pp.196-197)。
「それは一個の人格であり、その行為は、多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛のためにすべての人の強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼ら各人をその(行為)の本人とすることである」
「そして、この人格を担う者が≪主権者≫と呼ばれ、『主権』を持つといわれる、そして彼以外のすべての者は、彼の≪国民≫と呼ばれる」。
ちなみに、commonwealth を文字通りに訳せば、「国民の幸福」「国民の富」となる。
契約についての考え方は、すでにソクラテスのなかに存在していたことは触れておく必要があるだろう。ソクラテスは『クリトン』のなかで、脱獄を進める弟子たちの勧めに対して、次のように語っているのである。
「ソクラテスよ、まあ一ついってくれ、いったいお前は何をしようとしているのだ。お前は、お前がしようとしている行動によって、われわれ法律と国家組織の全体とを、お前の力の及ぶかぎり、破壊するというちょうどそのことを企画しようとしているのではないかね。…ソクラテスよ、われわれとお前との間の合意(homologia 同意、承認、約束、協定 agreement)はそんなことだったのか、それとも、それはむしろお前が国家の下すいかなる判決にも服するということを誓ったものではなかったのか」(プラトン『クリトン』久保勉訳、岩波文庫、p.79)
ソクラテスは、自分を育ててくれたのは国だからそれを裏切ることはできない、と語ってクリトンの提案を断り、「悪法も法である」の有名な言葉を残して毒杯を飲んだ。
「『公正な社会』に注目する現代の正義論の大勢とは対照的に、本書では正義が前進しているのか、それとも後退しているのかに焦点を合わせる実現ベースの比較について考察する。この点において本書は(ロックやルソーやカントらによって展開されて)啓蒙時代に現れた…哲学的にもよく知られた伝統から離れ(スミス、ベンサム、マルクス…らによって追及されて)同じ時期、あるいはその直後に形成された『もう一つの伝統』に従うことになる。…これらの思想家たちは、『正義』という言葉を様々な意味で用いている。アダム・スミスが述べているように、『正義』という言葉は『いくつかの異なった意味を持っている』。私はスミスの正義の考え方を最も広い意味で検討することになろう」(pp.39-41)
アダム・スミスは「たんなる正義は、たいていのばあいに、消極的な徳にすぎず、われわれが、自分たちの隣人に害を与えるのを妨げるだけである」(『道徳感情論』水田洋訳、岩波文庫、p.213)。)と言う。そして、侵害されると人が憤慨し、侵害した者は処罰の対象となる、そのような形の「徳」である、と正義を定義づける(同p.208)。さらにスミスは、「人類は、不正によってなされた害への復讐のために使用される暴力には、ついていくし、是認をあたえる」(同)「すべての人は、もっとも愚昧で無思慮なものでさえ、詐欺、背信、不正を嫌悪し、それらが処罰されるのをみて喜ぶ。だが、社会の存立にたいする正義の必要性について、反省したことがあるひとは、めったにない。その必要性が、どんなに明白であるように見えるとしても、そうなのである」(同p.231)とも付け加えている。
ディケンズが『大いなる遺産』のなかで主人公のピップに語らせ、センがそれを『正義のアイデア』の冒頭に引用している「不正義ほどはっきりと感じとれるものはない」は、「小さな子どもの世界」に留まらない。単純に要約すれば、人は不正に対してはただちに憤慨するが、正義そのものの必要性を真剣に考えることはない、ということにほかならない。だから、「正義は消極的な徳」であると、言うのである。
これに対して、たとえばカントにとっての正義(正しい行い)は、自身の行動確率を普遍立法に適うようにふるまうこと、と定義して良かろう。カント的普遍立法は、簡単に言えば人類全体の幸福を視野に入れた行動を是とするものである。とすれば、人類的な視点での言動が、正しい行為ということになろう。正義はただ一つ、人類的視点での行動であり、それに反することはすべて不正義、となる。カント流の正義の定義を「正義は積極的な徳」と名づけることにしよう。スミスの正義は「受動的正義」、カントの正義は「能動的正義」とも言えよう。