平成25年度第Ⅲ期講座 正義のアイデアⅢ

平成25年度第Ⅲ期講座 正義のアイデアⅢは、2014年1月14日(火)から3月25日(火)までの全10回が終了しました。

 アマルティア・センの『正義のアイデア』をテキストとした年間講座の最終期となります。

1、リア王「目がなくとも、耳で聞け」 2014.1.14 アンパンマンの正義論
2、最大化と最小化の法則 2014.1.21 最適化への道
3、『マハーバーラタ』の教え 2014.1.28 「大きな正義」と「小さな正義」
4、アリストテレス「富は単に何かに役立つに過ぎない」 2014.2.4 
5、「憂鬱な科学」経済学の幸福論 2014.2.18 リアルな自分になる
6、平等と自由 2014.2.25 
7、公共的理性としての民主主義 2014.3.1 
8、毛沢東「民主主義がなければ…」 2014.3.8 
9、人権とグローバルな義務 2014.3.18 
10、人間であるとはどのようなものであるか 2014.3.25 

 トマス・ホッブスは『リバイアサン』の中で、人の人生は「ひどく不潔で、残忍で、短い」ものだと書いています。本当でしょうか。この醜い人間たちを調整する装置として、正義は発明されたのでしょうか。しかし、「人の人生は、清く、慈愛に満ち、十分に長い」と言えたとしたら、世界はどのように見えてくるでしょうか。ご一緒に人生を語らいながら、正義を論じ合いましょう。

<全10回の概要>

1、 リア王「目がなくとも、耳で聞け」

正義はどのようにして盗人を罵るかを見てみよ。汝の耳で聞け。立場を変えてみよ。どっちがどっちだ? どっちが正義で、どっちが盗人か? 汝は農民の犬が乞食に吠えるのを見たことがあるだろう?
(アマルティア・セン『正義のアイデア』p.235)

2、 最大化と最小化の法則

 本書にとって重要なのは、人々は常に合理的に行動するという仮定ではなく、(人々はときには間違った判断をし、理性の命じるところに従わなかったりするものの)人々は合理性の要件から全くかけ離れているわけではないという考え方である。
    (同p.266)

3、『マハーバーラタ』の教え

 古代サンスクリットの叙事詩『マハーバーラタ』にある興味深い会話については、序章で取り上げた。その会話は、デリーからそれほど遠くはないクルクシュートラにおける大きな戦いについて、偉大な戦士アルジュナとその友人であり師であったクリシュナの間に交わされたものである。それは一般には人間の、特にはアルジュナの義務についてであり、アルジュナとクリシュナはその論争で全く異なる視点を展開する。
(同p.307)

4、アリストテレス「富は単に何かに役立つに過ぎない」

 所得と富は、人の優位性を判断するには不適切な指標であるということは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』でもはっきりと論じられている。「富は明らかに我々が追求している善ではない。なぜなら、それは単に他の何かのために役に立つものに過ぎないからである」

                   (同p.365)
5、「憂鬱な科学」経済学の幸福論

 私がどんなに哲学に熱中しているとしても、経済学は私の職業であり、私の職業は、幸福とは困難な関係にあることを認めることから始めたい。トーマス・カーライルに従って、経済学はしばしば「憂鬱な科学」と呼ばれる。しばしば経済学者は、おぞましい興冷ましと見られ、人間の自然な喜びも、互いに対する友情も、経済原理の公式の作り話にしてしまう。
(同p.387)

6、平等と自由

 「平等は、18世紀のヨーロッパやアメリカの革命の主要な要求であっただけでなく、啓蒙運動以後の世界においてその重要性については並外れたコンセンサスが存在した。私は以前、『不平等の再検討』において、近代の社会正義に関する規範的理論で、人々に支持されてきたものはいずれも、その理論が特に重要と見なすものについての平等を要求していると述べたことがある」
(同p.417)

7、公共的理性としての民主主義

 「精巧な制度的形式を持つ民主主義は世界でも新しいものである(それは2-3世紀以上に古いものではない)。それにもかかわらず、トクヴィルも書いているように、それは社会生活において、もっと長く、もっと広範な歴史を持つ傾向を表している。民主主義を批判する者は、いかに強固に拒否しようとも、参加型統治の深い魅力に目を向けるべきであり、それは今日でも妥当し続け、奪い去ることの困難なものである」
(同p.458)

8、毛沢東「民主主義がなければ下で起きていることがわからなくなる」

 「民主主義がなければ、下の方で何が起こっているのか理解できない。一般的状況は分からなくなる。すべての立場から十分な意見を集めることはできない。上の者と下の者の間にコミュニケーションは存在しえない。トップレベルの指導層は、物事を決めるのに偏って間違ったデータに拠らなければならなくなる。このようにして、主観主義者であることを回避するのは困難となる。一貫した理解と一貫した行動を達成するのは不可能となり、真の中央集権体制を達成するのも不可能となる」
(同p.489)
9、人権とグローバルな義務

 「人権を認めるということは、人権侵害がどこで起ころうとも、それを防ぐためにすべての人が立ち上がらなければならないと主張するものではない。むしろ、もしある人がそのような人権侵害を防ぐ上で有効なことをできる立場にいるなら、その人にはそれを行う良い理由があるということであり、それは、何をなすべきかを決める上で考慮しなければならないものである。他の義務や義務でない関心が、問題となっている特定の行動をとる理由に勝るかもしれないが、しかし、その理由は、「私には関わりのないことだ」と言って単純に退けてしまえるようなものではない」
(同pp.527-528)

10、人間であるとはどのようなものであるか

 何年も前に、「こうもりであるとはどのようなことか」と題する正当に有名な論文の中で、トマス・ネーゲルは心と体の問題について根本的な考え方を提示した、正義論の追及も、同じような問題と関わっている。すなわち、「人間であるとはどのようなものか」という問いである。
  (同p.583)
 ホッブスが、「ひどく不潔で、残忍で、短い」人生しか生きられない人間の悲惨な状況について言及したとき、彼は、同じ文章で、「孤独であること」は、心をかき乱すような不幸であるとも指摘している。孤独から抜け出すことは、人間の生活の質にとって重要であるだけでなく、人類が苦しめられているその他の窮状を理解し、それに対応する上で、強力に貢献することができる。そこには確かに基本的な強さがあり、それは正義論が取り組んでいることを補完するものである。