平成26年度第Ⅲ期講座プラトンの『国家』を読むⅢ

★1月13日(火)から始まった平成26年度第Ⅲ期講座プラトンの『国家』を読むⅢは、3月17日(金)に無事終了しました。

1、にせ哲学者とほんとうの哲学者ー物という他者を問う2015.1.13
2、太陽の比喩―善のイデアはどこにあるのか2015.1.13
1の談論 ―至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり2015.1.20
3、線分の比喩 「見ようとして見ず、知ろうとして知らず」2015.1.20
談論2 善への道は、的の中心を射抜くがごとし―アリストテレス2015.1.27
4、洞窟の比喩とメディアとの関係2015.1.27
談論3 善と悪の諸相2015.2.3
5、哲学的問答法2015.2.3
4の談論から メディアは一つのソクラテスである2015.2.10
6、50歳統治論ー哲学をいつから学ぶべきか 2015.2.10
7、民主制―“自由で幸せ”の内実を問う 2015.2.17
5の談論から NMB48とソクラテスの関係 2015.2.17
6の談論から 「ともに」(with)の現実化 2015.2.24
8、民主主義に万歳二唱―今、起きていることの意味 2015.2.24
5の談論続き NMB48の須藤凛々花を語る2015.3.3
9、ミメーシスの本質―詩人や画家は真実を告げない? 2015.3.3
8からの談論 民主主義に物申す2015.3.10
10、エルの物語―人生をどう選ぶべきか2015.3.10
再考:民主主義 「寄りあい」に息づく「イソノミア」の精神2015.3.17
9からの芸術談義 フッサールの現象学へと踏み込む2015.3.17

講座概要 プラトンは、善のイデアが地上に具現したところに、正義を体現した理想国家が誕生すると説いています。洞窟の比喩など三つのたとえで展開されるイデアとは、そもそもどのようなものなのでしょうか。最後を飾るエルの物語は、冥界から帰着した男の不思議な人生訓として、わたしたちに「いかに生きるべきか」を問いかけてくれます。

<全10回の内容>
1、 にせ哲学者とほんとうの哲学者
2、 太陽の比喩
3、 線分の比喩
4、 洞窟の比喩
5、 哲学の前奏曲
6、 哲学的問答法
7、 50歳統治論
8、 民主制国家の欠点
9、 魂の不死と正義
10、 エルの物語

1、 にせ哲学者とほんとうの哲学者
プラトンの『国家(下)』は、第六巻から始まります。その一~一○(p.18-p.57)までは、にせ哲学者とほんとうの哲学者の違い、そして、ほんとうの哲学者がなぜ社会のなかで育たないのか、が論述されています。プラトンがここで言う「ほんとうの哲学者」とは、ひたすら真理だけを探究して生きる人のことを指しています。そもそもこうした人たちは、その素質をもって生まれるものは極めて少なく、そうした素質も社会のなかで芽をつまれてしまい、望むべき「哲人政治」の実現を困難にしている、とプラトンは考えます。真の哲学者は猛獣のように危険だから手なづけ飼いならしたほうが良い、と大衆は考えている、とも言います。人間はすべて真理を潜在的に胚胎しており、それを生み出させるのが哲学者の仕事である、とのソクラテスの信念とは反するものですが、それはここでは問わないことにしましょう。
第Ⅱ期の最終回近くで、『アナと雪の女王』の「ありのままの私」論議から、私たちはハイデガーの「他者」の問題へと踏み込みました。他者との「関わり」が人間存在の本質であり、実存とは空間の「中に」(in)ポンと置かれた物のような孤立存在ではなく、時空を超えて何か「に」(at)つながっている「関わり存在」であることが明らかにされました。論議では「他者」は「他人」という人間を意識して語られましたが、中田さんがトゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』(榊原晃三訳、河出書房新社。岩波現代選書など岩波書店からも二種類)をとりあげ、孤島に一人きりに置いて行かれたロビンソン・クルーソーは、「物が他者となっている」との清新な視点を提供してくれました。
『フライデーあるいは太平洋の冥界』のなかで、ひとりぼっちで島に残されたロビンソンは「どんな人間も自分の内心に…習慣、応酬、反省、機構、固定観念、夢、かかわり合いなどの危くて複雑な足場をもっていて、それは絶えず自分の同類と接触することによって形作られ、変形し続けるということを、今のわたしは知っている。…他者は、わたしの世界の主要な断片である…」(p.44)ことに気づきます。そして、「この世界では、他者は…灯台のようなもので、自分たちの周囲に一つの光り輝く小島を創造して」いるけれども、「この他者という灯台がわたしの知覚の領域から消えて」しまい「今は万事休す、暗闇がわたしをとり巻いている」(p.45)思いに慄然とするのです。
こうして人間という他者を失ったロビンソンは、自分が存在する島そのものと対話を始めるようになります。「話し相手は一人もいないから、彼は緑の塊相手に、長く、ゆっくりとした、深い対話を交わし、そうした彼の身ぶりや、所作や、思惑が、それと同じだけの質問を作り、この質問に対して、島が上手に答えたり返事し損なったりし、この答え方によって質問に制裁を加えるのだった。これからは、彼の島との関係次第で、彼の組織が成功するかしないかで、すべてのことが左右されるということを、彼はもう疑わなかった」(p.46)
 島との対話から彼が始めたことは、島の中に自分自身が唯一の住民である「文明」を作り上げることでした。彼は、船に残された小麦を蒔いた畑を作り、その収穫によってパンまで作るようになります。ガラス瓶と真鍮容器を組み合わせて24時間で水が落ちる時計も作りました。ハリセンボンから排出される赤い染料をインクにして、海水で白く変質した書籍で日記もつけはじめます。そして自分が従うべき憲法と刑法のような決まりまでつくり、それに合わせて自分の行動を律するようにしたのです。こうした一連の行為を、彼は「島の組織化」と呼びました。皮肉なことに、自らに不自由(決まり)を与えることによって彼は、逆に精神の自由(孤独という魂の縛りからの解放)を得たのです。
 今や「島という他者」はロビンソンの管理下に入り、彼は島の盟主として君臨するようになります。島のあらゆる「物たち」、すなわち鉱物、植物、動物は、彼を生存させる資源となり、彼を生存させるための糧となったのです。しかしこの状況のなかで、彼は自己でありながら自己でない「他者」を自己の外に発見し、「わたしはだれだろう?」と問いかけ(p.72)、その「わたし」は島の排泄物であるという結論にいたります(p.81)。
 さて、物語の方は、逃亡インディオのフライデーの登場で、たった一人「人間の他者」が加わったことで新たな展開に入ります。結局、フライデーは文明の魅力に負け、通りがかった船に乗って去り、ロビンソンは文明の中で生きる意味の無意味さにひとり島に残ります。
 今回は、「ほんとうの哲学者」が育つのを邪魔している衆愚としての「人間他者」に対して、「物という他者」は逆に私たちを「真の哲学する道」へと導いてくれるのではないか、との仮説を立ててみることにしました。ロビンソンの島は、私たちを包含する「物という他者」全体の象徴です。『国家』における大衆が哲学者たちを飼いならそうとしているように、私たちはこの「物という他者」を飼いならそうとしてきたのではないでしょうか。私たちの縛りから「物たち」を解放し、彼らに自由に語らせ、彼らが開いてくれる哲学に耳を傾けてみませんか。まずは、皆さんにとって「物」とは何であるのか、自由に語ってもらうことから始めましょう。