新々 やぶにらみ雑記帳

哲学サロン ニーチェの『この人を見よ』を読む」考
                               草野又郎

1. 私は一個のデカダンである

 私もまたニーチェ同様一個のデカダンであります。ただし、中途半端なデカダンであります。私には、ニーチェの言ふ「慣れた生活環境からあえて離脱して絶対の孤独へ入って行こうとする」あのエネルギーが無いことを恥ぢてをります。

 坂口安吾は、著書『堕落論』で、「堕ちよ、堕ちよ」「堕ちきれ」と。「身にふりかかった苦悩には執拗に堪え抵抗しても、自らのほんとうに欲する本心を見定めて苦悩にとびこみ、自己破壊を行なうという健全なる魂、執拗なる自己探求」とか、「通用の倫理に対して反逆せよ」などと述べてゐます。また、小林秀雄は三島由紀夫に対し、「堕ちてもいいんだ。ひるんだらダメですよ」(小林秀雄『人間の進歩について』)と励まして?ゐます。

 私はそれらに憧れてゐるものの実際には出来ない。要するに、「堕ちて」はゐるものの「堕ちきれ」てゐないのですね。落ちきることによつて自立する、ニーチェの言ふ「自己再建」が出来てゐないもどかしさがあるのです。中途半端な所以です。

 ところで、仏教の歴史に残る偉い僧侶たちは、「慣れた生活環境から離脱」して出家といふ形で世を捨て高みに上る「超人」なのかもしれませんね。
それにしても、ニーチェは、『この人を見よ』の「序言」や、「なぜ私はかくも賢明なのか」「―怜悧なのか」「―良い本を書くのか」、と自信たつぷりの自賛が出来るのか不思議と言へば不思議です。

2. 私はルサンチマンに左右されない

 レジメに、「 ルサンチマン(仏: ressentiment)は、弱い者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情を表し、そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だとする「価値の転倒」のこと、とされ、ニーチェの用語と言われています。」とあります。
まさに現代日本は悪い意味での「戦闘的にな」つてゐるのではないかと思ひます。

 流行りの「SNS」に見られる、「(変てこな)確証バイアス」「(誤つた)正義感」が世に跋扈してゐる様は「ルサンチマンがいつぱい」ですね。
 これは、「持つ者」と「持たざる者」の分断、相変はらずのトランプ人気、という一面も見え隠れしてゐるやうです。
 
 ところで、ニーチェはキリスト教を攻撃しながら、「キリスト教の中でも最も真面目な人々は、いつも私に好意的であった」とありますが、キリスト教に対し過酷に敵対したのはパウロ以降のキリスト教で、イエス一個人には恨みがましく攻撃はしてはゐなかつたのが見てとれます。

3.私は戦闘的である

 ニーチェは、「人の成長度を測るには、その人が自分よりどれくらい強力な敵を探しているか」であり、「戦闘的な哲学者は人間だけでなく、問題に対しても決闘を挑むものだ」また、「敵と対等であることが決闘の条件だ」と語つたとのことです。
 
 これはニーチェが、「敵と対等」であると見た、つまり自分と同質同類であると見たワーグナーに、彼の変質に対して決闘を挑んだことに表れてゐるやうです。

 ところでニーチェは、「反時代的考察」で、当時のドイツ的教養の「非人間化した歯車とメカニズムによって、人格の不在」を嘆き「生が病んでいる」として、それを打ち破るものとして、「我執の心」と自己陶冶」の心をあげてゐたとのことです。

 これはハイデガーが当時の技術文明を批判しながら、まさに「世が病んでいる」「頽落」「ダス・マン(世人)」と語り、ニーチェの「自己陶冶」、すなはちハイデガーお得意の「存在=生成」を主張したことを想ひ出してしまひました(以前、先生の講座でハイデガーを取り上げてゐました)。
 
4.私は不気味なまでに潔癖である

 <ニーチェは「喜びの泉」のことを、「不潔な輩や彼らの抱く欲情は近づくことのできない険しい高所」にあり、「おお、私はその泉をついに見出した、わが兄弟たちよ!この高所の極みにおいて、喜びの泉は私のために滾滾と湧き出ている!そして賎民が共に来て飲むこともない、一つの生命がここにある!」(『この人を見よ』八、p.39)と言い切り、それは「われわれの故郷である」と断じるのです(同p.40)>とありました。

 そして、「人間に対する、「賎民」に対する嘔吐感が、つねづね私の最大の危険であった」と。
 これら語りの冒頭には、「人生は快楽の泉である。だが、俗衆が加わって飲むと、泉はすべて毒させる」とも。(「こうツアラツストラは語った」『世界の大思想―ニーチェ』河出書房新社より)と。
  
 なんといふ「熱狂的な賛歌」ならぬ「独善的孤高なる賛歌」であらうか。ツアラツストラの面目躍如の感がありますが、ここまでくると少し引いてしまひます。
 そもそも「賎民」といふ言葉(訳語)が、自分が名指されてゐると感じるせいか、不快感を催してしまひます。因みに、高橋健二訳(同上書)では、「俗衆」となつてゐます。まあ、「賎民」でも「俗衆」でも「俗人」でも、私自身にとつてはすべて当てはまるのでせうが。せめて末席にでも「清人」でありたいです。一方、「潔癖」過ぎる人は疲れます。人間、「清濁併せ呑む」「聖俗併せたる人」でありたいものです。まして「超人」は雲の上。

 「すべての良い事柄は、遠回りの道を通って、目的へと近づいていく」とニーチェは語つたとのことです。近道だけを選んで進まうとする自分には心に突き刺さる言葉です。遠回りとまではゆかずとも、せめて道端の草花を愛でながら進んでゆきたいものです。

5.私は自分を浪費しない人間である
 
 ニーチェは、「私は自分を浪費しない人間なのだ」と言ふ。つまり、自分にとつて分かりきつたもの、問題ではない問題については今更考へるやうなことはしない、ということでせう。彼は、<「神」「魂の不滅」「救済」「彼岸」これらは私がこれまで注意を払ったこともなければ、そのために時間を割いたこもない概念ばかりだ>と言つてゐます。

 ごく一般の哲学者であれば、「物事が分かる、分からない」とか、「問題であるか、問題でないか」は、その対象を真剣に考へた結果出てくる言葉であるはずですよね。自分は充分に考へた、自分としての結論は出た、これ以上でもなければこれ以下でもない、と。たとへば、キリスト教はルサンチマンの宗教で生への意思を否定するどうしようもない宗教であることが充分に分かつた、これ以上詮索する要なし、時間の無駄だ、と。

 ニーチェがかう断じ切れるのは、熟考の末なのか、「結論が簡単に見通せるようなテーマについては、直感的にスルーしてしまう」のか疑問ですが、彼が「そのために時間を割いたこともない」と言つてゐるので、これが天才の証かもしれません。ただ、「注意を払つたこもない」ことはないでせうね。

 ところで、ニーチェの、「できるだけ腰を掛けないようにすること。筋肉の運動を伴わないで生まれた思想は信用するな。全ての偏見は内蔵から来る」は、思索を専らとするいはゆる哲学者とは違つて、概念より肉体、デュオニソス的ニーチェの面目躍如たるものではないかと思ひます。 。

 「長っ尻は、精霊に背く本当の罪」とは、キリスト教は(上記の)結論が出てゐるのでこれ以上の詮索、無闇に時間を浪費するな」といふことなのでせう。

6.理想主義への無知が私の真の悲運である

 ニーチェの謂ふ「理想主義」なるものがよく分かりません。イデアリスムスとルビが振つてあるところからニーチェが嫌ふプラトン的世界観、観念論を指すのではないかと思ひますが、どうやらここでは「平等主義」に近いのではないか、と勝手に解釈してゐます。

 本文に「誰に対してでも自分と相手を同一視してしまう態度、ある種の自己喪失感、他人と自分との間の距離の忘却であった」(54頁)とあります。他者との関係性に於ける同一性、無距離、つまりは「平等性」を嫌つたのではないかと思ひます。ツアラストラにみられるやうに、彼はルサンチマン、嫉妬、自負心に欠ける者どもを嫌悪し、虐げられた者たちが「平等」を叫ぶのだ、と。そして彼はイエスがそれに応へ隣人愛を説くキリスト教を痛烈に批判してゐます。

 「こうツアラストラは語った」(『世界の大思想―ニーチェ』所収。河出書房新社)では、私が第4項で述べた「俗衆について」の次項「タランテラ(毒蜘蛛)」に、「平等のこれらの説教者たちとわたしは混同されとりちがえられたくない」とし、「なぜならば、正義はわたしに向かって人間は平等にあらずといっているからである。実際、人間は平等であるべきでない!」、俗衆は平等を求める、と。そしてかの「超人」への愛を説いてゐます。

7.読書は私一流の本気から休養させてくれるものである

 「人間は、生まれつき、知ることを欲する」(アリストテレス)とのことです。哲学は「愛知」であるとも教はりました。世の中、知を欲し愛するどころか、知らねばならないことがいっぱいあるし、そもそも物事を知らなければ社会も渡つてはゆけません。

 今回はニーチェの読書論がテーマですが、読書は物事を知るに留まらず、本に問ひながら自分も考へることで読者の人生に少なからぬ影響を与へるものなのでせう。本を読むことによつて知識が増へ、未知の世界に入つてゆく、新しい景色が見えてくる、作者が自分に語つてくれてゐる、といふある種の快感が得られるものと思ひます。

 しかし、しかしです。哲学書に関しては、その難解な文に出会ふことで自分の無能さを知ることとなり恐怖となつてしまふ。そもそも哲学の偉人・天才たちがその一生をかけて考へ考へ抜いて書き上げた内容を私ごとき素人がすべて理解で出来るはづはなく、解つたつもり、どころか、自分なりに勝手に解釈してしまふときが(いや、殆どかな)私にあります。残念ながら・・・・・。

 アリストテレスは「文に頼ると頭を使はないから駄目だ」(孫引きです)とも言つたやうで、不埒ながらこの言葉に共感を覚えますよ。

 ところで、ニーチェは、読書とは「私を私自身から解放して、自分とは無縁な学問や魂の中を私に散策させてくれるもの」とあります。ここで、「読書」を「小説」に置き換へ、

 「学問」を「人生」に置き換へると私の小説観によく合ひます。古今東西問はず人口に膾炙した小説は、心を魂を揺さぶり人に「休養」どころか「感動」させてくれるものです。尤も私は作家によつて好き嫌ひがありますが。

 余談ですが、私の読書法は(小説は別として)、大事だなと捉へた箇所に傍線を引きます。ところが自分の所有する本ではなく、図書館から借りた本には傍線を施すことが出来ないので、そのページをメモ帳に記して、あとでかなり端折つてパソコンに入力して覚えこまうとします。

 ただ、あまりに傍線が多くなる本は時間もかかるし面倒臭いので、同じ本を購入して済ませてしまひます。もつたいないけどそのくらゐ読み込みたい本に出会ふのは幸せなことではないかと思ひます

8.私はワーグナーを麻薬として必要とした。

 ニーチェはワーグナーを麻薬と見做すほど彼にのめり込んでゐた。皮肉なことに彼が嫌ふキリスト教の愛=「エロス」「フィリア」「アガペー」の三つを混合したやうな惚れ込みぶりですが、彼を「断じて許さなくなった」のは「彼がドイツ人たちに迎合したから」とあります。

 彼がたとへ「迎合」したにせよ、それを「許し」「隣人をあなた自身と同じように愛しなさい」が本来のキリスト教ですが、ニーチェは「キリスト教に対する過酷な敵対者」であるので、彼を「許し」「本当に愛する」ことが出来なかつたのでせう。

 エーリッヒ・フロムは「愛は情念の側ではなく、理性の側に属する」と言つてゐますが、理性より情念に過ぎたニーチェらしいワーグナーへの愛憎劇だつたと思ひます。

9,私は英雄的人物の対極にある人物である

 「受講生のお一人から、三島由紀夫に比べたら、ニーチェの詩はその形容が単純で、実に深みがない、とのご批判をいただきました」とあります。
 
 詩の作者に、形容の単純さではなく言葉の深みに心地よさを感じる人があり、言葉の飾りやレトリックより作者が何を訴えようとしてゐるかを重視する人もゐることでせう。つまりは詩による作者と読者の対話が互ひの心に響きあへばそれでいいのです。
 
 ここで注意せねばならないことは、外国人の文章は日本語ではないといふことです。つまり翻訳されてゐるといふこと。翻訳は果たして原語を忠実に再現し得るのかといふ問題があります。これは以前の講座で述べたことがありますが私は否定的です。
  
 ニーチェの『ツアラツストラ』は詩的文章に満ちあふれてゐますが、彼の思想の根本が表されてゐるのではないかと思ひます。『こうツアラツストラは語った』(世界の大思想 「ニーチェ」所収/河出書房新社)の「けがされない認識について」で彼はかう語つてゐます。(同書114頁)

 いまや、きみたちにもおとずれるーー月の情事は終わった!(略)なぜなら、すでに炎々とかがやくものがやってきたからだ。――大地に対するその愛がやってきたからだ!太陽の愛はすべて無邪気であり、創造者の欲望である!(略)まことに、わたしは、太陽にひとしく、生命とあらゆる深い海を愛する。こうして、わたしにとって認識は、いっさいの深みはーーわが高みにのぼりきたれ、ということである!
 
 同書「より高い人間について」には、

 神のまえでは!――ところが、神は死んだのだ!(略)いま初めて大いなる真昼がくる。いま初めて、より高い人間がーー主人となるのだ!(略)いざ!いざ!きみたち、より高い人間よ!いま初めて人間の未来の山が陣痛の叫びをあげる。神は死んだ。さてこそわれわれは欲するーー超人の生きることを。(277頁)

 因みに同書では詩的文章ではなく詩そのもので語つてゐるのがあります。例へば同書「憂愁の歌」は114行にも渡つてゐます。詩人でもありますね。

10.神、徳、彼岸、心理などはすべて嘘である

 ニーチェの言ふ嘘につき、小難しいことは分かりませんので、私の身の丈に合つた意見です。

 神 存在するはうがなにかと都合がいい。ときどき意地悪するのは困るが。
 霊魂 非存在なら夢も希望もない。
 徳 私に一番欠けてゐるもの。
 罪 私に一番備はつてゐるもの。
 彼岸 どちらかといへば此岸が望ましい。
 真理 人間が永遠に追求するが到達できないもの。
 永遠の生 まさに、「循環するゆえに、永遠です」(茂木先生)