洒脱男「草野又郎」のハムレット独り言

1. まずは、「To be,or not to be,that is the question.」から

●40もの全翻訳リストに入つてゐるか分かりませんが、小林信彦の「生きよか 死のか どないしよ」との訳は、アイロニーでせうが、前の林家三平が頭掻き掻き喋つてゐるやうで緊迫感全くなしだけど、関西弁の軽妙さ、可笑しさがあつて、ヘンな味はひがあるものです。

●学生時代は「授業に出るか サボルか どっち?」と十円玉を投げたものですが。

●ハムレットは悩み、迷ふ人の代表みたいな人ですが、一般論として・・・・。
人間、悩みや迷ひは必ずあるもので、迷ひのない人生なんて味も塩気も無い単純人間でせう。人は悩み迷ふことによつて人生の深みとか奥行が出てくるものと思ひます。ただ、世の中、決断せねばならない秋がある。重要なことは、自分の心に最初に泛んだ直観に従ふことではないか、と思つてゐます。いづれにせよ決断したら、「今の決断が最高」と思ひこんでしまふ、状況が変はればそこで考へればいいのではないか。
「ビュリダンの驢馬」(水槽と飼桶の間をどつちに先に手をつけるか迷ふうちに餓死してしまふ)」にだけはならないやうにしたいものです。

●今回の元事務次官の息子への殺害事件で、父親は、苦悩・迷ひ・葛藤を経ての決断なのでせうが難しい問題ですね。「個と個」「個と社会」の問題として捉へてみるのも興味あるところです。

2. 時間の蝶番が外れたって、どういうこと?

●この場合の「時間が発狂する」とは「正常から異常へ」でせうが、「蝶番が外れる」とは、一般的に「必然から偶然へ」「緊張から弛緩へ」、よりドラスチックに、パウロみたいに、「日常から突然に啓示を受ける」意味合ひもあるのではないか。

●前回、「舞台の演技と日常の演技」「振りと真似」「本音と建て前」の話があつたやうですが、「6.近松・・・虚実皮膜論」に関連しますので、6項に譲ります。

3. 太宰治の『新ハムレット』

●「シェークスピアの国の人々は、この部分を特に考えたりしますかね」のご意見について、ネイティブが考へるかどうかは判りませんが、シェークスピアの作品は人間のありやうを深く描かれ、また広い世界で読まれてゐるやうですので、なかには深く深くしつこく考へる人もゐるはずで、その代表格が哲学者と呼ばれるおほかたの奇人・変人?なのでせう。

●そもそも文学は理性や観念を超えた美と捉へたいもので、かう言ふと実も蓋もない話になりますが、この部分は、あゝだ、かうだ、との議論そのものへの疑問もあります。

●「どちらかを選ぶのではなく、どちらでもないファジーの選択を私はいつもしている。どちらかに決めてしまうと、いろいろな不都合や余計な摩擦を生んでしまうから」とのご意見がありました。

 どちらを選ぶにしても、それを言葉で表すと、言ひ過ぎたり言ひ足りないかして、言ひたいことを過不足なく言ふことは難しいものですし、まして、「不都合や余計な摩擦を生んでしまうから」曖昧に済まさうといふ気持ちも分かります。
ものごとに、「どつちかハッキリしろ」とか「とにかく黒白をつけろ」といふのは野暮な話で、黒とも言へるし白とも言へさうだ、との曖昧さを愉しんで掬するのも粋といふものです。ただ、これが私的な問題ならスルーできますが、世間に対して決断せねばならない時がある。「不都合や余計な摩擦を生んでしまうから」決めないことは、よそから見ると問題の先送りや無責任との誹りを免れない。さてどうしませう。

 世間の誹りを気にしてゐたら粋の道は進めませんしね。自分を採るか世間を採るか迷つてしまひますが、「粋は秘めるもの」として自分の心の中にしまひこむのが乙なのでせうね。なんだかよく分からないけど、この曖昧さのなかで筆を擱くことにします。

●「ハムレットのどこに惹かれて、文人たちが書きたがるのか。
 『ハムレット』は読む人によつていろいろな解釈ができる、想像力を逞しふ出来る、人間のありやうが深みのあるドラマになつてゐる、読者を自分の世界観、人間観へ引き込むことが出来るといふことが魅力なのでせう。
さういへば、『源氏物語』も大勢の人が関はつてゐますね。学者先生による現代語訳は面白味がないけれど、谷崎、与謝野、円地、寂聴、田辺などの文人にかかると味はひが出てきますね。最近では、橋本治や林望など異分野の人たちが独自の解釈で参加し始めたとのことです。(私事ながら、なにより原文(もちろん注釈を読みながらです)にあたるのが一番で、私はよくは分からないなりに、読了まで丁度十年かかりました)

 ところで、『源氏物語』は映画、演劇のほか絵巻物、屏風、蒔絵、掛け軸などへ展開されてゐますが、『ハムレット』は映画、演劇や少しの絵画のほかの芸術作品への展開はどうなつてゐるのか寡聞にして知りません。

4. 徘徊老人の独り言

●さしずめ私は「無手勝流派」でせうね。でも、正しくは、「独断と偏見流派」です。

●「この立位置の多種・多彩さが、この「哲学サロン」の会話を豊かで活気のあるものにしてくれています」の先生のご意見。私の経験からも全くその通りで、受講生の皆さんも充実した幸せの時間をお持ちではないかと想ひます。羨ましいかぎりです。
 
5. ゲーテのハムレット

●「こういう手合いをどうして一人の人物で表現できるでしょうか」「むしろ一ダースぐらいで・・・」とあります。
・落語や講談、浪曲などは独りで何人もの人物を演つてゐますね。漫才は二人で。

●「表と裏」「演劇と現実」「舞台と観客」。これは非常に興味ある問題で、次項の「虚実皮膜」論と大いに関連するので私の意見は次項に譲ります。

6. 近松門左衛門とハムレット 虚実皮膜論

●「芸は虚実の皮膜の間にあり」について。
・この「間」にある、といふことは、「中間」にあることを意味してゐるわけではありません。人形浄瑠璃の場合、黒衣が浄瑠璃に息を合はせて人形を操るわけですが、人形の動きは人の日常の動きよりも「実」より「虚」に近くなります。この「虚」が文楽の娯しみとなります。人形のぎこちない動きがホントらしくないウソっぽさが観客の心を揺さぶるのです。

・「様式美」「型」といふ言葉がありますが、これは日常の動きを「美」に凝縮化したもので、写実より抽象に限りなく近いものであります。私たちは日常ごく自然に動いてゐますが、これがそのまま舞台に乗つけると、普通であるだけに何の面白みも感じませんよね。人は普通でないところに日常とは違つた感興を味はへるのです。人形浄瑠璃ではこの効果が最もよく表れます。
・歌舞伎(特に丸本物)の役者の演技・動きは様式美の典型のひとつと言はれますが、

 歌舞伎演技のなかで「人形ぶり」といふものがあります。突然、文楽の人形の所作が
 入る場面が現はれます。ここで観客の「ジワが寄る」(一瞬ザワッと舞台に引き寄せら
れる)のは一層「虚」に近くなつたからです。

・ついでながら、文楽なり歌舞伎を観るにつき、その形の美しさで十分感動することが出来、形が何を現しているか、とか、何を意味してゐるか、といふのは二の次であり
ます。

●「虚と実」について、或いは「現実と非現実」また「写実と抽象」について、および「仮面と素面」について。

・文学や絵画、演劇など芸術は、目の前にある「リアル」を詳細に書いたり、描いたり、演じたりするのではく、むしろ隠れてゐる心理、ものごと、感情などを文字なり絵具なり演技で鑑賞者に表すのがホンモノではないかと思つてゐます。
 (個人的好みですが、対象に限りなく近い写真のやうな画はつまらない、キュービズムは分からないけど、印象派くらゐが丁度いい)

・誤解を招きかねないですが、演技は、特に舞台演技は動作が多少大げさになるのを控へてはなりません。観客との物理的な距離の問題もありますが、「実」より「虚」に近いはうが効果的と考へます。観客は日常から逃れて、非日常を求めて来るのですから。

 平たく言ふと「芝居気」「芝居ごころ」を失なふてはいけません。観客は玄人より素人が多いのですし。9項にある『花伝書』にも「そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと」(第五 奥義に言う)つまり、大衆の人気が大切、と。

・ゲーテでしたつけ、死ぬ間際に「もっと光を」とか、誰かが「これで幕は降ろされた」とか、ホントかウソか知れませんが、さう言つたとあります。芝居気たつぷりですね。ハムレットにしてもあんな名台詞が芝居気なしに吐けるわけがありません。

 それは読者が、観客が望んでゐるからなのです。「実」より「虚」が欲しいのです。

・(前にも述べましたが)談志は「虚実てえ言うけど、なぜ「虚」が先にあるかは、世の中、「実」より「虚」が多いからだよ」、と。また、「落語はみんなウソと分かってるから面白いんだよ」と言つてゐます。寺山修司は「ホントよりウソの方が人間的真実だ。ホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは存在しない」と。

・仮面を着けるといふことは、自分以外の人間になるといふことで、これは「日常から非日常へ」、「実から虚へ」通じるものかもしれません。普段の自分という縛りから解放することになります。復活祭の仮面、突飛なファッションも頷けます。
・女は自分を包み隠す術を知つてゐるから化粧に精を出すのでせう。つまり「仮面」。

・ホーキング博士はかつて、一日のうちで最も多く考へてゐることは何かとの質問に「女性のことだ。女性たちは完全に謎だ」と答へたらしい。仮面の奥は判らないと。

・能の面は仮面とは言ひません。「面(おもて)」と言ひます。それは人物の最も抽象化された人格だと思ひます。

・また「粋と野暮」の話になりますが、「虚」より「実」を採つたら「粋」は何処かへ行つてしまひますね。

●「舞台と観客」について。

・アリストテレスを持ち出すまでもなく、舞台演技は観客にカタルシスを覚えさせなければなりません。あゝ観てよかつた、来てよかつた、感動した、スッキリしたと感じさせなければ意義がありません。

・ギリシャ悲劇にせよ、英雄は英雄らしく振る舞ふ、観客は自分を英雄になぞらへて喜んだり悲しんだりする、これが「演劇・演技」なのだと思ひます。私にもありましたが、西部劇を観て映画館の出口では肩を怒らして拳銃を構へた振りで主人公になつてゐるやうな気分で外に出たものです。役者と観客が一体となつたやうなものです。

・芝居での「成駒屋!」とかの掛け声や、「ブラボ~」との喝采や、大きな拍手にせよ、観客が舞台へ、役者への援入であり、唄ひ手が観客へ向かつて「皆さんご一緒に~」とかも一体化した娯しさがありますね。ウィーンのニューイヤーコンサートの掉尾を飾る恒例の『ラデツキー行進曲で』の拍手とか、ハリー・ベラフォンテのカーネギーホールでの『マチルダ』の観客の合唱など感動しますね。童謡劇の『ピーターパン』では観客の拍手の度合ひで劇の進行が変はるらしいですね。さういへば、高座から見た観客の雰囲気で落語の題を決める咄家もゐる。映画や小説ではありえない舞台独特のパフォーマンスです。

7. ローゼンクランツトギルデンスターンは死んだ―表と裏の秘密

●「我々はいま、自然じゃない、奇妙な、不可思議な状況にある」「これにはきっと何か意味がある」

・世の中、確率論やら因果の法則では、奇妙な、理解しにくい事柄が起こることがあるし、理性では処理も解決もできない「非合理な事実」(シェリング)もあると思ひます。
 これを「運」とか「不条理」とか「宿命」と呼んでいいのかは私には分かりません。「必然と偶然」の問題であるのかも分かりません。分かるやうになるべく考へたくもありますが、どうせ分からないでせうから、これは深く考へる人にお任せします。

・深く考へずに一番易き道を採りますと、「神」を持ち出さざるを得ません。なにせ、「すべては神の御手に」「木の葉一枚落ちるのも神の仕業」なのですから。すべては「必然」であります。「偶然」は起こり得ませんね。

・ギルデンスターンはコイン投げで、「俺はいま神と闘つてゐる」と思つたかもしれませんね。
 
 ところで、ハムレットもホレーショにかう言つてゐますね。「一羽の雀が落ちるのも神の摂理」「結局、最後の仕あげは神がする」(福田恒存訳)と。

・また、「この天地の間には、哲学などの思いも及ばぬことがたくさんあるのだ」、ローゼンクランツには「この不条理、哲学者にも説明がつくまい」(福田恒存訳)と。

・神を考へずとも、スピノザは「あるものが偶然と呼ばれるのは、われわれの認識に欠陥があるからにすぎない」と。ヘーゲルは「哲学的考察は偶然的なものを排除するという以外の意図はもたない」と言ひ切つたやうです。(いづれも孫引きです)

・「結論」。一番外れのない簡素で、単純で、開きなほりで、相手は反論するのも莫迦莫迦しくてはふり出してしまふ言葉は、「世の中、すべてのものごとは『さういふことになつてゐるのです』」ではないか。

・世の中には科学では説明し切れない物事がいつぱいあると思ひます。

・話が枝道に入るけど、私は、「煙が地を這ふやうにたなびいたりするのは、大地に恋をしてゐるからだ(との話がある)」との非科学的な、呪術的な、神秘的な説に魅力を感じます。「あ、いいなあ」と。ヘンかしら。ヘンですね。

8. 江戸川乱歩とハムレット

●罪悪感と後ろめたさ
・刑事が犯罪者へ「君が犯人ではなかったら、少しも痛痒も感じないものでした。君たちが恐怖を感じ、拷問されているように感じたのは、君たちが犯罪者だったからです」との言葉がありました。犯罪者はいつか捕まるかもしれない、との恐怖感はもとより
 犯罪を犯したことへの多少の罪悪感なり後ろめたさがあるもののやうです。
 キエルケゴールはキリスト者について、「洗礼を受けて教会へ行つてお祈りをする位で安心してゐては駄目で、いつも罪の意識に怯へながら神の前に立つて不安神経症的に生きねば本物ではない」と語つたさうです。

 であるならば、人間は自責の念や自己嫌悪、自分は罪人であるといふ後ろめたさ、要するに原罪意識がキリスト教を生み出したといふことでせう。自分は罪人だ、なんて後ろめたさを引き摺りながら生きてゆくのは私は御免蒙りたい。ニーチェはここを突いたのではないかと思ひます。

9.花伝書とハムレット

●『花伝書』について
・レジメに「『花伝書』もまた、人間『そのもの』を観客に示すための方図を、第一に説いています(真似について)。それは、単に表面的に似せるのではなく、人間の本質とは何か、に向かって、芸によって現わす神髄の探究でした。観客は、能を通じて、自らの本質を逆に垣間見ることによって、『人間とは何か』を知らされ、感動するのです」とあります。

・はたして世阿弥は『花伝書』を記すにあたつて、「人間そのもの」とか、「人間の本質とは」を「芸によって現す神髄の探究」をしたのでせうか。そして、観客は「『人間とは何か』を知らされ感動」したのでせうか。世阿弥はそこまで哲学的?に現し、観客は哲学的?に知らされ感動し、読者は同じく読み取らねばならないのでせうか。そして、演者はそこまで頭に、身体に入れて演技をするものなのか疑問です。

・私は、誤解を恐れず大胆に言へば、『花伝書』は演技のノウハウ、脚本を書くにあたつてのノウハウ書ではないかと思つてゐます。
芸は「芸戯」であり、遊戯であり、観て、感じて楽しむものであると思ひます。演者は演技者であり、また「演戯」者でもあるのではないか。

・『花伝書』の「第五 奥義に云ふ」に「ときに応じてところによりて、おろかなる眼にも、実にもと思ふ様に、能をせむこと、これ寿福なり」「目不利(めきかず)の眼(まなこ)にも、おもしろしと見る様に能をすべし」(同)「工夫と達者とを究めたらんとしてをば、花を究めたるとや申すべき」(同)そして、「人の好み・望みによりて、いづれにもわたる上手なるべし。この嗜みの本意をあらわさんがため、風姿花伝を作するなり」とあります。

 つづいて「第六 花修に云ふ」には、「なにとしても、見物衆は、見るところも、聞くところも、上手ならでは心かけず。さるほどに、棟梁のおもしろきことば・振り、目にさへぎり、心に浮かめば、見聞く人、すなはち感を催すなり」「謡ふも風情、舞ふも音曲になりて、万曲一心たる達者となるべし。これまた、作者の功名なり」(同)とあります。

・どうも、万民に娯しんでもらふべく、いかに演技・演戯すべきか、いかに脚本を書くか、についての書ではないか、と思つてしまひます。

・「野人『花伝書』の神髄を知らず」と言はれさうです。まさに「独断と偏見流派」躍如たるものかもしれません。

10、人生の分岐点「To be ,or not to be, that is the question.」

●「知る」といふこと。

・「To be ,or not to be, that is the question.」について、レジメでは、長谷川弘基さんの解釈は「そうなのか、そうではないのか、知りたいことはそれだけだ」というもので、(略)つまりは、「本当のことが知りたい!」という叫びと理解すべきであろう、とあります。

・アリストテレスに、「人間は、生まれつき、知ることを欲する」とありますし、哲学は「愛知」であるとも教はりました。世の中、知を欲し愛するどころか、知らねばならないことがいっぱいあるし、そもそも知らなければ社会も渡つてはゆけません。

・ところが、世の中には、「知らないはうがいい」「知らなかつたはうがよかつた」とのケースが少なからずあるのではないだらうか。

・「ものは思ひ知らぬこそよけれ」(とりかへらば物語)、「知らぬが仏」(諺)のやうに。
 卑近な例ですが、夫なり妻なりの不倫を知つたら心が掻き毟られる苦悩を味はふことになりませうし、知らなかつたら普段通りの生活であつたことでせう。また、外部の懸念があつたことを知らなかつたお陰で思い切つた手段を採れて成功した、とか。知つたために余計な心配やトラブルが起こつたりすることも多い。

 「知る」が多ければ憂いを増すことがあるもので、無知は有知に勝ることがある。夏目漱石も「知に働けば角が立つ」(『草枕』)と言つてゐますしね。
 
●(ついでに)「識る」といふこと。

・ものごとを「識つてしまふ」と、想像力が損なはれてしまふのではないかと思ひます。 
 美術館で、絵画や彫刻そのものを観る前にキャプションを読む者がゐる。また、イヤホンで解説を聴きながら鑑賞する者がゐる。ほんたうは「識る」前に、「観る」「想像」して味はふことが大切ではないか。

・美・芸術は、まづ身体で感じるもので、頭で理解するのはその後でよい。そもそも美は言葉を黙らせるものではないか。予断なく子供の目で見ればよい。ピカソも「今は感動はない。だから感想が湧くのだ。感動には叫びはあるが言葉はない」と言つてゐますね。小林秀雄のかの有名な言葉「美しい花がある。花の美しさといふやうなものはない」と。

 金剛般若経に「応に住する所無くして其の心を生ずべし」とあります。先入観や過去の経験や知識を無くせ、と。「識」が干渉すると台無しになつてしまふことがある。「月を愛でるに天文学は要らない」のであります。

・前(さき)に「識る」ことは、ホントを知ることを鈍らせてしまふのではないか、と
 思ふ次第です。
                                      以上