第七回 哲学カフェ「映画のコスモロジー」

         ー認知症の中に「実存」を見るー

 第七回の哲学カフェは、所を変えて、千葉県・土気の加賀谷はじめ邸「哲学ギャラリー」で開催されました。

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 スピーカーは、フリーライターの佐々木聖さん。私が編集者の一人である『私達の教育改革通信』で、映画評論にも健筆をふるってくれています。「映画を起点に考えること」
のタイトルで、次のような事前メッセージを寄せてくれました。

 認知症と介護という重たいテーマを扱いながらも、ユーモアとペーソスにくるんだ喜劇として「ボケるのも悪くないかも」と思わせてくれる森崎東監督の『ペコロスの母に会いに行く』(2013年度『キネマ旬報』誌日本映画ベストテン第1位)。この映画を皆さんで鑑賞してから、思ったことを気ままにおしゃべりしてみませんか? 1本の映画を起点に、どんな話の展開になるのか、楽しみにしています。

 映画鑑賞後、佐々木さんが「この映画の本当の主題は記憶だと思います」と問いかけたところから、皆さんが自身の体験を踏まえながらの哲学的な談論に発展して行きました。記憶が消えていき、ついには自分の息子のこともわからなくなっていく母親の姿に、未来の自分の姿を重ね合わせたり、父親との回想を披露するなど、話は記憶の深みへと入っていきました。なかでも、子ども連れの女性参加者による実家の祖母の話はとても印象的でした。

 「祖母の話を聞いていると、一冊の本を読んでいるように、話の風景が浮かんでくる。それがとても楽しくて、私自身が幸せになるのです。映画の中で、認知症の母親が、最後に灯篭流しを橋の上で見ているうちに、亡くなった夫と親友、妹と一緒にいる自分を感じているシーンがありましたが、あれは本当に見えているのだと思う」

 目の前の自分の記憶が消えていく中で、過去の自分が活き活きと心の中で蘇っているー認知症の状態がもしそうならば、この映画のメッセージ「認知症も悪くない」は、ほんとうなのかもしれませんね。

 「実存」をキーワードに障害の問題にアプローチしている加賀谷さんは「この映画に描かれているのは実存そのものですね」。

 ほかならぬ私は、記憶を亡くしていく母親の心の奥で交差する酒乱の夫や身体を売って生きていた親友への思いなど、辛い「負の記憶」もまた、人間にとって生きていた証であることに思い知らされました。楽しいことも苦しいこともすべてを包含した生きている現実そのものが「実存」ならば、私自身の抱いていた実存なる概念は、なんとも底の浅いものであったと、思わざるを得ません。

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加賀谷はじめ宅の玄関を飾る「哲学 Gallery]のパネル

 それぞれの参加者が、記憶の不思議に包まれて、加賀谷さんの「哲学ギャラリー」を後にしました。亀の上に生えた木の上に山高帽をかぶったピエロのような動物人間が乗っているギャラリーのパネルには、木の茂みの中に「低」の文字が見られます(上)。「この低はどういう意味ですか」と佐々木さんが質問すると、「高みから物を見るのではなく、低いところから見ることが大事だとの想いを込めたものです」と、加賀谷さんのお答えです。
 近づいてみると
 
 もっと足もとに…近く底をほりさげて
 心の根もとが、しっかりしtないと花も咲かない
 心で世界を旅し、皆に底のすばらしさを感じしってもらいたい

 のメッセージが書かれていました。

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 土気には、バブルのころに「チバリーヒルズ」などと揶揄された豪邸地帯「One Hundred Hills」があります。物見遊山でこの広大な敷地を散策し、会はお開きとなりました。