第三回 「源氏物語のフィロソフィー」
誘惑の美学―光源氏とドン・ジョヴァンニ
昨年、市川海老蔵によるオペラと能を組み合わせた『源氏物語』が話題になり、今年に入って東京・渋谷などで相次いで公演が予定されています。2011年12月には、紫式部と藤原道長の恋愛関係を想定した角川映画による『源氏物語 千年の謎』が公開されました。海老蔵の『源氏物語』は「妖し」が、角川の映画は「官能」が作り手の主題として、迫ってくるのを感じます。そこに王朝風の「雅(みやび)」の味付けをすれば、いかにも『源氏物語』の世界が浮かび上がってくるように思われませんか。しかし、どうなのでしょう。『源氏物語』の魅力は、「妖し」や「官能」、そして平安時代の貴族社会が持っている「雅」に代表されてしまうのでしょうか。
紫式部(推定 970~1014)は第66代一条天皇(在位 986~1011)の中宮・彰子の女房(部屋持ち女官)として宮中につかえていました(もう一人の中宮・定子には、『枕草紙』の清少納言がいました)。父・藤原為時、母・藤原為信の娘で、摂政太政大臣だった藤原良房の兄弟を先祖としてもつ家柄だが、式部の時代には大方は受領(地方の行政責任者)階級で、一流の貴族からは落ちていたといいます。20何歳のころ、父ほどの年齢の藤原宣孝と結婚、一女をもうけますが、夫はまもなく病死し、4~5年のあいだ寡婦となります。おそらくそのころすでに『源氏物語』を書いていたとみられ、評判を聞いた時の権力者・藤原道長が、すでに中宮・定子がいるにもかかわらずもう一人の中宮として押し込んだ娘・彰子(しょうし)のもとに送り込んだ、とされています。一条天皇は源氏物語の続きを聞きたがり(女官の朗読で、物語を聞いた)、もう一人の中宮・定子に足が向くことの多かった一条天皇が彰子のもとを足繁く訪れるようになったといいます。
モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』につては、キルケゴールの哲学的な研究があります。音楽関係者が、このオペラの真の意味合いについて誰も気づいていないようだから、音楽の素人の私があえて語る、と書き綴った『あれか、これか』における『ドン・ジョヴァンニ』論は、なかなか読みごたえのある啓発的なものです。キルケゴールは、色情狂がその罪のために地獄に落ちるという単純なストーリーとしてドン・ジョヴァンニをとらえるのではなく、ドン・ジョヴァンニは誘惑した女性たちの隠された心情を太陽のように照らして明るみにだし、身分制や男性社会の規範から解放して自由へと導く力の象徴である、と考えたのです。数ある誘惑のシーンのなかで最も印象的なのは村娘で結婚式を間近に控えたツェルリーナを誘惑する場面でしょう。「許嫁のマゼットに悪いわ」といいながら、貴族の夢見るような生活を目の前に提示されたツェルリーナは、結局「手に手をとって」ドン・ジョヴァンニの屋敷へと向かうのです。このときのツェルリーナの複雑で甘く夢見るような心情と誘惑するドン・ジョヴァンニの巧みなささやきを、見事に二重唱として音楽化したのがモーツァルトなのです。怒りさえも美しくなければならない、がモーツァルトの作曲哲学でした。この二重唱には「誘惑」そのものが、極限の美として結実している、といって良いでしょう。
『源氏物語』は、現代の400字詰め原稿用紙にして4,000枚、登場人物が実に430人にのぼる54帖(帖は折り本の一枚)の大長編で、光源氏がもっぱら浮名を流したのは、「桐壷」から「藤野裏葉」の33帖、年齢的には誕生前から39歳までと考えていいでしょう。それ以後の光源氏にはあまり関心がありません。
光源氏は次のような人物として描かれています。
「この世の人とも思えないほど、…美しく」「お小さくても…しっとりつややかで、こちらが気の引けるような気品をたたえていらっしゃる」「光る君の元服されたお姿は、ただもうすばらしくて、おどろくばかりの愛らしさがいっそう輝き増されている」「『光る君』という名は、…高麗の観想家が、この君をほめたたえてお付けしたのだと、言い伝えられていますとか」(桐壷)「ほのかに拝したあの夜の源氏の君の面影や御様子は、ほんとうに噂にたがわず、たぐいまれなすばらしさだった」(帚木)「女たちが夢中になるお慕いもうしあげる…源氏の君」(夕顔)「世にたぐいまれな妖しいほどのお美しさ」(夕顔)。文にしても「御筆跡のお見事なのは言うまでもなく、さりげなくおつつみになったお手紙の体裁まで、…まばゆいほど好ましく映る」(若紫)
当時の時代、上流から下流まで存在する貴族社会の女性たちは、通ってくる男を受け入れながら、あるものは正式な妻となり、あるものは愛人となって妻の座を伺い、妻となっても年の差から若い男の受け入れを許す、「通い婚」の中で生きていました。男たちは、「帚木」の「雨夜の品定め」のように、かなり自由に女たちの元を訪れ、「恋愛」を甘受していました。女性たちも、自分たちの理想とする男性が訪れるまで、辛抱強く、入れ替わり立ち代わり訪れる男性たちの品定めをしていたのです。光源氏もまた元服後に左大臣の娘・葵の上を正妻にしましたが、亡き母・桐壷の面影を求め(漫画『あさきゆめみし』の作者・大和和紀は「光源氏は女性に母を探し求めるけれど、そのマザコンぶりを自覚していないのが救いがたいところなんです。その罪が、周囲の女性をどんどん不幸にしていく」と書いている)、女性遍歴を重ねていきます。
「待つ」しかない女性たちにとって光源氏は、美のイデア、の地上への現出だったのではないでしょうか。プラトンによればイデアとは、そこからすべてが流れ出す根源であり、超越した彼方にあって見ることができません。思惟でしかとらえることのできないイデアの具体化である光源氏は、最高の香の匂いとともに女性たちの寝所にもぐりこみ、巧みなことばでささやきかけます。女性たちは、それが誰であるか、かすかな直感で「光る君」ではないかと想像します。たとえ夢想に過ぎないにしても、突然「その人」と思われるものの存在を感じたとき、身も心も任せてしまうそのような「誘惑」の力を『源氏物語』は描き出しています。しかし、ドン・ジョヴァンニが「誘惑の成就」によって凱歌をあげるのに対して、皮肉なことに紫式部は、誘惑を成就した光源氏に対して、「不可思議な女性の心」という壁をつきつけるのです。地獄に落とされるドン・ジョヴァンニに対して、「美のイデア」として現出された光源氏は、ときには生霊によって、ときには呵責という内的な声によって、愛する人の死や苦しみにさらされることになります。
バージニア・ウルフは、『源氏物語』の翻訳を読んでとくに「雨夜の品定め」から、紫式部の美意識を「世の常のものこそ感嘆に値する」と読み取りました。
平川祐弘『アーサー・ウイリー 源氏物語の翻訳者』(白水社、2008.11)
のpp.310-313をご参照ください。
実は光源氏の「遍歴」に描かれている男女の愛の「機微」もまた、まさしく「世の常のもの」であり、私たちはそこに感嘆とともに神秘な「愛のイデア」を感じ取っているのではないでしょうか。