第二回 「物」が問いかけるもの

前座 レジメ 2014.11.20 茂木和行
本日は、田村未希さんに「物が語る」のタイトルで、ハイデガーの技術論を中心にお話をしてもらうことになっています。まずは、アトリエ・ローゼンホルツさんの11月のテーマとして、私が聖徳大学のSOA講座で続けている「モーツァルトの食卓」を活用してくださっていることにお礼を述べさせていただきます。この講座のモーツァルト関連レシピを開発してくれている古和谷直美さんによれば、ある教室で「レシピは見ればだれでも作れる。しかし、そのレシピが生まれてきた、その物語のほうを伺いたいのです」と言われたそうです。
日本では『源氏物語』に代表されるように、「平安時代から室町時代までに盛んに作られた「作者の見聞または想像を基礎とし、人物・事件について叙述した散文の文学作品」(『広辞苑』)、として「物語」には長い伝統があります。一方で、牛へんに勿をつくりとしている漢字「物」は、いろいろな布でつくった吹き流しを描いた象形文字であり、水中に沈めて隠すさまも表しています。そこから「物」は、一定の特色のない牛の意味をもち、物一般を表す文字として使われるようになった、と言います(藤堂明保ら編『漢字源』学習研究社、2007.1改定版p.996)。従って「物」は、色のつかない無色の「存在」そのもの、とも言えるわけで、『源氏物語』は「光源氏という存在」に関わるお話、と言い換えることができるでしょう。
一方、物語の英語訳であるstoryは、ギリシア⇒ラテン語のhistriaから来ており、ギリシア語では「探究」「調査」「究明」あるいは「尋ねる」「問い質す」などの意味を原意として持っているのです(古川晴風編著『ギリシヤ語辞典』)。つまり、「物の物語」は「物の探究」ともなり、あるいは「物が何かを問い質す」意味も内在していることになります。
工具という物、車という物、飛行機という物、原子力発電所という物、宇宙船という物…そして、お菓子という物。私たちは技術が生み出したさまざまな「物」に囲まれて生きています。今日のお話を「物が語る」としたのは、技術における物とは「いかなる存在」であり、その物がいかなる「語り」を私たちに開示してくれるのか、に焦点を当てたいからです。わたしたちはまずは、その物の由来(始まり)と、その物が何であるか(形相)、そして、いかなる素材(質料)からできており、何のためにつくられたのか(目的)、について、知りたいと思うのではないでしょうか。言うまでもなく、「始まり」(アルケー)「形相」(エイドス)「質料」(ヒュレー)「目的」(テロス)は、アリストテレスが『形而上学』であげている物事が出来上がるために必要な四つの原因(アイティオン)にほかなりません(A 983a20-30)。
ハイデガーはギリシア語の「原因」(アイティオン)が、もともと「責任」「負い目」の意味を持っていることに注目し、その技術論を「負い目」から考察しようとしているように見えます。ハイデガーはまた、「知識力」(知る力)と「技術力」(作る力)を、真理を開示する二つの柱と見ているようにも思われます(ハイデッガー『技術論』小島威彦・アダムブルスター共訳、理想社、「1、技術への問い」p.22, pp.28-29)。技術における「負い目」とは何なのでしょうか。技術が秘めた「真理」(アレーテイア)とは、いかなるものなのでしょうか。
この前座のあとに、次のような談論が沸騰しました。続きをどうぞ。