第二回の談論「けなげ組のつぶやき」
今回の哲学カフェは、若手ハイデガー研究者の田村未希さんによる提題「物が語る」から始まりました。田村さんは、ハイデガーのブレーメンでの講演(1949年)をもとに、ハイデガーが物と技術との問題について抱いていた二つの危惧を紹介してくれました。まず一つは、急激な科学技術の進展によって、私たちが先端技術の一種の歯車としてからめとられ、そのことが意識されないまま、常態化(ルーティーン化)してしまうことのもたらす危うさです。もう一つは、物を瓶や皿など、その使用との関係だけでとらえることが日常化し、物そのものの持つ多様な可能性が忘れ去られている、という問題です。
この問題提起に対して、座をどっと賑わせた一人の主婦の方による次の発言は、今回の哲学カフェの秀逸と言えるでしょう。
「お話を聞いていて、亀田製菓のけなげ組を思い出しました。短くなった鉛筆や、部屋の隅のほこり、床に落ちた食べかすなど、普段だれも見向きもしないものがこういう気持ちをもっているのだ、日常的にものは多くのことを語りかけているのだ、ということを示していると思うのです。私たちは常識にとらわれて、それを覆い隠している、見えないものにしている、と思うのです。自己的ですが、ハイデガーのものの話をそんな風に解釈してもよろしいでしょうか」
「けなげ組」は、亀田製菓の「柿の種」の裏にイラストや漫画とともに、けなげに”生きる“さまざまな「物」たちの「つぶやき」を綴ったシリーズです。
https://www.e-kakinotane.com/kawaridane/kakitane/kenage/
たとえば、こんな具合です。
ちびたエンピツ
どうして?! まだまだお役にたてるのに. ぼくを使ってすばらしいデッサンや、小説・熱いラブレターだって書いてもらえるのに… エンピツの後ろに生まれただけでこの運命…
トイレットロールのしん
紙のまん中でしっかりがんばって使いやすいようにどんなに目が回っても負けずにツッぱっているのに使い終わったらクシャ!! ポイ!! だもんねー・・・それに一生ほとんどトイレの中なんだヨ…
ストローの紙袋
中身のストローはちゃんとジュースを飲んでもらえるのに、ボクはベリッと破られて、時々プッ!!と吹きとばされたり、ギューッとちぢめてポトリと水をかけられて、フニフニのびるのを笑われたりする。
ボクって一体何だ!!
シリーズは合わせて百種類。十数年前からあるとか。「柿の種」のパッケージの裏面に可愛いイラストとともにけなげ組の多彩なつぶやきが載っています。何とも愛らしく笑っちゃうこのキャラクターたちに、思い入れの強い方がかなりいるようで、ネット上でさまざまな形で紹介されています。
http://kawacolle.jp/2013/08/kakinotane-kenagegumi/
http://hyokki.blog.so-net.ne.jp/2013-10-14
こうしたブログを拝見するだけでも、けなげ組がいかに幅広い層に支持されているかがわかります。
大哲学者ハイデガーの警鐘を、わたしたち庶民がとっくに了解して、普段は目にもとめない物たちのつぶやきに耳を傾けているなんて、素敵なことだとは思いませんか?
日本語の「もの(物)」が、奥深い意味を持っていることも、参加者の方の知見によって開かれてきました。
「いまのお話は、物体としてのものですね。しかし日本語には、人生は空しいもの、一杯飲み屋に行ったものだ、など、日本語はものすごく幅広い言い方がある。形のない無も含めて“もの”と使っている。万葉集には、毛能とかくものや母能とかくものもある。このものはなんだろう」
「大野晋さんの古典基礎語辞典によると、日本語のものには大きく二つの意味がある。一つは運命。もう一つは不可変なこと。たとえば『もののあわれ』は、どうやっても変わらないから感じる情緒、ということになる」
大野晋著『古典基礎語辞典』(角川グループパブリッシング、2012.10)には、ほかの辞書には見られない実に多彩な「もの(物)の意味が紹介されています。
モノといえば、現在では「物体」という意味をどの辞書も最初に挙げている。しかし、古い時代の基本的意味は「変えることができない、不可変のこと」であった。「自分の力で変えることのことができないこと」とは、①運命、既成の事実、四季の移り変わり②世間の慣習、世間の決まり③儀式④存在する物体。…
男女相逢えば、いかに愛していても、生別にせよ死別にせよ、別れることは必定で、いかんともなしがたい運命にある。それをモノ(運命)ノアハレという。いかに花美しく、紅葉色濃くとも四季の移り行くのは避けがたい運命の悲しさである。これもモノノアハレである。モノアハレ、モノガナシ、モノサビシなどのモノは「なんとなく」と訳されているが、それは誤りである。『源氏物語』若菜上巻で、光源氏が女三宮を迎えて世の慣習のとおり三日間夜離れなく通う。紫上は経験にないこの事態に「忍ぶれどなほものあはれなり」と思う。「なんとなくさびしい」のではなく、こうした自分の動かしがたい運命が悲しいのである。
なるほど、「運命」と「不可変」。一人の参加者が、政治における不条理の話を出しましたが、これを「そういうもの」「そんなもの」と言う理由がわかりますね。「もののけ」の「もの」は出自が別だとか。もっと詳しく知りたい方は、この辞書を参照ください。
科学技術にからめ捕られている危険性について、私はWeb上で自分の好みを察知したかのような宣伝が自動的に出るようなビッグデータ型情報操作を例に出しました。そこからの対話も、紹介しましょう。
「ビッグデータによる危うさの指摘があったが、実際のところ本当に危うさを感じていますか。ぼくの場合は、Web上で、一見自分の好みにあった商品などが自動的に出されるようなことは、ああ、ビッグデータはぼくのことをこんな風に見ているのか、とむしろ楽しんでしまうところがある」
「コンピュータが真似している自分は、常に過去の自分ですね。自分の漫画をそっくり真似されていたある漫画家が、『ぼくは何の心配もしていない。ぼくの未来は真似できないから』と答えた話を思い出します。金言だと思う。自分という存在は、刻一刻と変わっている。過去の自分をどれだけ真似できても、未来の自分は真似できない。
国家など巨大組織が情報管理し、そのデータによって、国民の未来まで決められるようなことが起きるかもしれない。ビッグデータの現実的な危険性は、そこにあるのではないか」(わたし)
「実は、私の子供が通っている小学校で、すでに似たようなことが起きているのです。性格や運動力などのデータを参考にしながら、あなたはこちらに向いているのではないか、と指導していくのです」
恐い話ですね。自分の未来が、集積された情報によって決められるようなことが、すでに起きている。この流れは、要注意です。
テーマが「物が語る」(物語)ということで、アイルランドの妖精物語の語り部をしている方が、参加してくれました。ハープ奏者でもあるこの方の話が実に面白い。
「ぼくは、アイルランドの妖精の物語をしているが、土地の名前の由来を遡るのが詩人の役割なのです。地元の人に妖精はどこにいるのかと聞くと、向こうの木立にいる、と答えてくれる。しかし、いくら探しても見つからない、するとまた、どこどこにいる、と言う。探しても見つからない。根をあげると、『それがわかったら妖精っていわないでしょ』と涼しい顔で笑って答えちゃう。では妖精はどんな”もの”かというと、itと言うんです。それが何であるか、対象として限定できないから」
「妖精は英語でfairyと言いますが、これはfuture=未来 から来ているのです。先ほどの運命にもつながっていきますね」など、この方の話はもっとはるかに面白いのですが、アトリエ*ローゼンホルツさんでお話をしている方なので、その場で直接聞くことをお奨めします。ハープ奏者として、一つ一つの音とどのように対峙していくのか、演奏における技術の問題の話も実に興味深いものでした。次の機会にでもご紹介できればと思います。
さて、ハイデガーが問題にしている技術のルーティーン化に対して、次のような対照的な声が出ました。
「ドアのノブを回すのにも、慣れるまではそれなりの技術がいる。でも、慣れてしまうと、意識しなくなる」
「職人は、腕が良いほど、仕事が早くなる。まるで、何も考えていないかのごとく、あっというまに作業を終えてしまう」
前者は「慣れ」による技術のであり、後者は「熟練」による技術のルーティーン化と言えるものです。この二つは同列に論じられるのでしょうか。アフター哲学カフェの食事時に、一人の主婦の方がこの問題を新しい視点から切っていくヒントをくれました。料理好きのその方は、「料理は愛情と感覚です」とサラリおっしゃるのです。愛情とは、作られる料理その“もの”への愛、を指しています。
ルーティーン化を、「物への愛」の欠如、の視点から見ていくと、どうでしょうか。名人級の職人が、手早く行う作業に、物への愛はないのでしょうか。原発や飛行機、自動車を作り上げる技術者に、彼らの扱う物への愛はないのでしょうか。こうした「愛」の視点から、技術と物の問題を考えるのも、なかなかの一興かもしれません。
わたし自身は、人間はホモ・サピエンス(知の人)と同時にホモ・テクニクス(技術の人)と言うべき存在である、との視点を基本にしながら、いつかお話できれば、と考えています。
わたしの基本的な問題意識は
前座レジメ
第二回 「物」が問いかけるもの
にあげてありますので、ご参照願えれば幸いです。
今回も、実に素敵で楽しい時間を味わうことができました。提題者の田村未希さん、そして第一回の
「路地性」に開く「異界」への入り口
の提題者である加賀谷はじめさんを始めとした11人の参加者の方がた、ありがとうございます。また、次にお会いできるのを楽しみにしております。