第五回哲学カフェ:「和歌のコスモロジー」

     ー哲学と文学の交差ー                  

●第五回哲学カフェが、
哲学カフェ・和歌の世界
 4月30日(木) 10:00-12:00

に、いつものアトリエ*ローゼンホルツで開かれました。

「和歌のコスモロジー」の総テーマのもと、
歌人の「瀞浸」(じょうしん)さん(中央 髭の御仁)が

「生きとし生けるものいずれか歌をよまざりける」
(紀貫之『古今和歌集仮名序』)のタイトルでお話をしてくれました。

 ご自分の和歌を加えた次のようなレジメのもとで、額田王や小野小町の恋愛談など豊富な事例をあげながら、和歌の基本は「愛の歌」であることを、示してくれました。

 下記レジメの冒頭にかかげた中学生の歌がなかなか素敵ですね。

 和歌の世界を通じて、日本の歴史と歴史上の人物を再発見もさせてくれました。
ありがとうございます。

和 歌 管 見

1.はじめに
 スキな人かぶらないようにしてるけど そうはいかない人生いろいろ 
(中3男子)
 返歌 そうだよねかぶっちゃても仕方ないよ 恋は理屈じゃないんだから 
(中3女子)

2.本邦最古の歌

素戔嗚尊 八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
雄略天皇 籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ)家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも (巻1の1)

3.古今和歌集假名序

 やまとうたは人の心を種として万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人 こと・わざ繁きものなれば心に思ふ事を 見るもの聞くものにつけて 言ひ出せるなり  花に鳴く鶯 水に住む蛙の声を聞けば 生きとし生きるもの いづれか歌をよまざりける  力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛き武士の心をも慰むるは歌なり

4.相聞

哲学カフェ・和歌の世界2)       内大臣藤原卿、釆女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶(え

藤原鎌足  吾はもや安見児(やすみこ)得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり
額田王   あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る
大海人皇子 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
清少納言  よしさらばつらさは我にならひけり頼めて来ぬは誰か教へし
小野小町  思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを
      色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
5.挽歌

有間皇子  磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む
大津皇子  ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
大伯皇女  うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)が見む
持統天皇  燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや面智男雲

6.雑歌

源実朝   大海(おほうみ)の磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも
     時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ                                      
物いはぬ四方(よも)のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

7.番外編もののふ(武士)

長尾影虎  もののふの鎧の袖をかたしきて枕にちかき初雁のこゑ
武田晴信 うちなびく水かげくさの露の間も契はつきぬ星合の空
蒲生氏郷  限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山かぜ
細川幽斎  古へも今もかはらぬ世の中に心の種をのこす言の葉  (歌は三条西実枝に学び、古今伝授を受け、二条派正統を継承した。)

8.拙歌(瀞浸)
  相聞   紅き薔薇花の如き君の笑顔を青空の下待つやわれらは
  挽歌   黄金なす朱くれないの雲ぐもよあわれ日暮れて墨となりぬか
  雑歌   初春の空ににほふは「菊五郎」夢を寿ぐ江戸大歌舞

★前座としての私のレジメ

 本日の登壇者は、歌人の「瀞浸」(じょうしん)さんです。皆さん、お顔を見ればおわかりのように、この哲学カフェの常連、佐藤裕明さんの別名なのですね。三水(さんずい)に静をつけて、「瀞(とろ)」と読みます。埼玉県の景勝の地「長瀞」の「瀞」ですね。「あいつは瀞いやつだ」の瀞ですが、文字そのものが持つ意味は、川の流れが澱んで動きのないところを指します。文字通り、水の静かな場所のことで、そこから、のろいとか、動きが鈍いという、マイナス的な人の性格を表すようになってきたのです。ご本人によれば、川の流れの静かな場所にじっと浸っている自分を連想してつけたそうですが、「最近はその心地よさに、そこから出られなくなってきました」とおっしゃっています。もちろん、謙遜に違いありませんが。

 さて、この哲学カフェに、なぜ、和歌に登場してもらったのか、前座としてまたまた多少の哲学話にお付き合いください。いうまでもなく和歌は、五七調を繰り返して最後に七七で多くを締める長歌と、五七五七七の定形を持つ短歌からなる万葉以来の伝統文学です。

 とくに短歌は、そこから発達した俳句と並んで、伝統的な日本文化の代表であり、三十一文字(みそひともじ)に一つの宇宙が表現されているといっても過言ではないでしょう。一世を風靡した俵万智さんの短歌「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」は、彼女の時代の若者の愛の形が濃縮され、小さなテーブルをはさんで会話する男女二人の風景がそのまま映像として浮かんでくるような気がします。百万言を尽くしても語りえないある瞬間を凝縮する力が、わずか三十一文字に存在するとは、考えてみれば不思議であり、凄いことなのではないでしょうか。

 まったく対照的な百万言の文学が、西洋にはあります。その最大の作品は、何といってもプルーストの『失われた時を求めて』でしょう。1913年はじめ、ある出版社の社長がプルーストのこの作品を見せられ、それが出版可能であるか相談を受けました。その原稿は712ページもあり、眠る前に自分がどのように寝返りを打つかを説明するのに30ページもかけるかと思えば、切れ目がないままワインボトルのまわりを七周半できるほどの驚異的に長い一文もある、といった想像を絶するものだったのです。
 
 結局プルーストは自費出版することになるのですが、読者からは「私は3年間かけてあなたの本を読んだが、何一つ理解できませんでした。どうか、本当に言いたかったことを二行でおっしゃってください」といった手紙がくるありさまでした。いまではトルストイとも比べられる歴史上の大傑作に御せられても、この読者の不満の声は「全英プルースト要約競技会」なる催しに結実しているほど、本質的な問題提起をしているとも言えるのです。この競技会は、『失われた時を求めて』の全七巻を15秒以内にまとめ、水着と夜会服を身につけて発表するというなんともお洒落なものでした。たとえばある参加者は次のように要約してみせました。

 「プルーストの小説が表面上語っているのは、失われた時間が取り返せないこと。…時間を超えた価値の回復と、見出された時のこと。結局は、楽天的であると同時に、人間の宗教的経験の文脈内に置かれた小説だ。第一巻でスワンが訪ねるのはー」

 と、ここまで語ったところで時間切れ。15秒がたって、ご苦労さん、というわけです。さて、あなただったら、この遠大な小説をどのように15秒で、あるいは、二行でまとめますか。

 プルーストは新聞の小さな三面記事を探し出しては、その底に潜む人生の哀歓を読み取ろうとすることを常にしていました。一見、彼の小説とは離反するように思えるほど極小なのが三面記事ですが、記事にはそこにいたるまでの登場人物の人生が凝縮しているはずです。あるときプルーストは、ブルジョアの青年アンリが母親を刺殺してしまった「狂気の悲劇」と題する記事に目を止めました。母親は、「アンリ、アンリ、お前、私に何をしたの?」と床に倒れ絶命しました。青年アンリは包丁や拳銃で自殺を図り、眼球が飛び出すような無残な姿で発見され、警察の尋問の途中でこと切れたのです。

 プルーストは、この事件を単なる狂気による惨劇とはとらえず、ギリシア悲劇に通じる人間性の悲劇的側面を表したものと感じ、コーデリアの遺体を抱きしめて叫ぶリア王を思い出しながら、五ページもの論説に仕上げたのです。悲哀、嫉妬、畏怖、歓喜など、さまざまな感情の流れの中で浮遊しているのが私たちの人生でありましょう。その流れの一つ一つの断面が、何らかの出来事によって噴出したとき、プルーストのような人は「繭」から糸を紡ぎ出すように、物語を抽出していくのではないでしょうか。

 哲学者のエーリッヒ・フロムは、芭蕉の俳句「よくみればなずな花さく垣ねかな」を題材に、俳句に象徴される短縮型の日本文学は、対象と同化することに特徴があり、対象を客観化して切り取り自らのものにしようとする西欧文学との違いを強調しました。フロムはその違いを「the being mode」(存在モード)と「the having mode」(所有モード)と表現しました。その説に従えば、プルーストが新聞の三面記事で試みていたことは、登場人物の人生を「掌中に」掴もうとする一つの格闘であり、『失われた時を求めて』は小説によって試みられた人生そのものの意味を掴みとろうとする一大挑戦だったと言えるかもしれません。

 哲学には、ほとんど一言でその本質的メッセージが伝わる表現がたくさんあります。

「無知の知」(ソクラテス)「イデア」(プラトン)「一匹の蝶のなかにも真理はあるのだよ」(アリストテレス)「われ思うゆえに我あり」(デカルト)「私たちが世界の中にあるのではなく、世界が私たちの中にあるのだ」(カント)「きみのあるがままに生きよ」(ニーチェ)「人間とは、自らが存在することに気づいている存在だ」(ハイデガー)…

 これは一種の三面記事のようなものなのでしょうか、それとも…。

 駄弁が長くなりました。そろそろ、「瀞浸」さんにご登場願いましょう。さて、和歌とは何ですか。その本質は何なのでしょうか。みなさまとの談論も楽しみにしております。

参考文献:アラン・ド・ボトン『プルーストによる人生改善法』(畔柳和代訳、白水社、1999.1)茂木和行「『持つ』の形而上学―フロム、芭蕉、アリストテレス、レヴィナスをつなぐ点と線」(聖徳大学言語文化研究所『論叢10』、2003.3)