第四回「身体論事始め」ーソクラテスあるいはアリストテレス
本日の哲学カフェは、舞踊家・市瀬陽子先生にご登場願っての「身体が語る」です。今回も、「身体を語る」ではなく「身体は語る」としたのは、第二回の「物が語る」のと同様に、身体そのものが私たちに語りかけてくる「何か」について、思いを馳せ、できれば小さな発見をしてみたい、と考えてのことです。前座として、心と身体について、少しだけお話することをお許しください。
ひとつは、心はどこにあるのか、の問題です。大森壮蔵という哲学者は、手を使っているとき心は手にあり、足を使っているとき心は足にある、と言いました。全身に走る神経の全体を含めて脳であると考えれば、走り幅跳びの踏切の瞬間は全神経が集中する利き足裏に意識、すなわち心が存在する、と考える理屈は存在します。モーツァルトは作曲に夢中になると、まわりがおしゃべりをしていようと何をしていようと、五線紙に向かってひたすら手を動かしていました。その時、彼の心はひょっとしたら外に飛び出して五線紙の上を跳ね回っているのかもしれません。
スキーのデモンストレーターが、美しく滑るとき、彼は雪面の力を自然に受けるポジションに身を置いています。滑り手と、スキー板と、雪面は一体となり、境目のない状態と言えるでしょう。このとき、スキーヤーの心は、どこにあるのでしょうか。重心でしょうか。靴の底でしょうか。あるいは五線紙を飛び跳ねるモーツァルトと同じように、心はスキー板からさらに雪面上にあるのでしょうか。
次は、心と身体の関係です。ソクラテスは「魂(心)は肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えました(『パイドン』33e)。これに対して、アリストテレスは「魂(心)が肉体を一つにしている」と考えています(『霊魂論』411b)。ソクラテスによれば、死は肉体の消滅による魂の解放であり、アリストテレスに従えば、死とは魂の消滅による肉体の消滅、ということになります。
進化の歴史からすれば、バクテリアのような微生物が徐々に多細胞化し、複雑な組織をもつ身体が発達し、その身体を動かす神経系もほぼ同時に発達を遂げ、やがて全体の神経を統括する塊である脳へと進化してきました。 身体が先に造られ、やがてその内部に心が生まれてきたことになるこのモデルは、ソクラテスに通じます。
「考える」ということは、電気信号の何らかの交換ですから、宇宙規模で電子を交換する体系を考えることは不可能ではありません。宇宙学者の中には、ダイソンのように何万年もかけて電子を交換する巨大な神経網としての生命体を描いています。この身体のない脳だけの生命は、気が遠くなるような時間をかけて考えを進めて行くのです。
そのような生命体は、いつの日か、自分は本当に存在しているのだろうか、と疑問を持つのではないでしょうか。そして、あるとき、デカルトと同じように「われ思う、故に我あり」に思い当たるかもしれません。さらにこの「思う我は」、一人ぼっちであることに気づいて悩み、他者を発見し、あるいは他者から発見されるための装置を作りたいと考えることでしょう。こうしてこの巨大な脳だけの生命体は、自らに感覚装置としての「身体」を付加する努力をしていくことになり、脳から身体の生成という逆の進化をたどることになるのです。これは、心が身体を一つにまとめる、とのアリストテレス型モデルとなります。
身体の運動神経が侵され、外界とのコミュニケーションが取れなくなり、やがては呼吸障害から死にいたる難病「筋委縮性側索硬化症(ALS)」で闘っている患者たちは、この脳だけの宇宙生命体と似たような状況に置かれている、と言っても過言ではないでしょう。最後に残された眼球の動きで、他者との対話を続けている患者の一人が、「光も感じることができなくなれば、私たちは真の闇の中に落ち込むことになる。私は存在し、考えている。しかし、たった一人で暗闇に存在する自分に耐えられるかどうか、その自信はない。そうなったとき、自身の生命維持装置をはずしてもらうべきか、私は悩んでいる」と語った言葉が、耳から離れないでいます。
身体とは不思議なもので、それが正常に働いているとき、私たちはその存在を気にすることはありません。歩いたり、走ったり、おしゃべりをしたり、など、ごく普通の日常生活で、そのすべての行動は身体によるものなのに、私たちはどれほど身体のことを意識しているでしょうか。身体のことを意識するのは、けがをしたり、肩が凝ったり、足がつるなど、何らかの異常を感じたときに限られるのではありませんか。
腰が痛い、電車の中で立っているのが辛い、など「身体」が私たちに語りかけるメッセージによって私たちは「年齢」を感じるようになります。顔のしわや、白髪など、外見の変貌も私たちに身体を意識させるようになります。身体は牢獄などではなく、私たちの存在をアピールする装置であり、コミュニケーションの有効な道具として機能していることを思い知らされます。
マーラーの交響曲第5番第4楽章が印象的に流れるヴィスコンティ監督作品の映画『ベニスに死す』は、「老い」との葛藤を描いて身体問題に一石を投じています。日常の現実に疲れ静養のためにベニスを訪れていた初老の作曲家が、海辺で見かけた少年に「理想の美」(プラトンのイデア的美)を見出したとき、自分の老いの醜さが気になり出します。床屋の薦めで、白粉と口紅、白髪染めをして若作りをし、ベニスの街を徘徊して少年の跡をつけまわしますが、疲れ果て、疫病にかかって海辺に身を横たえながら死んでいきます。ベニスに来る船の中で、奇抜な若作りをする老人に嫌悪感を抱く伏線が、効果的に使われています。
心は無限に成長するように見えるのに、身体の有限さが心もまた有限の存在に留めているように思えます。しかし、再生医療の急速な進歩は、有限な身体を取り替え可能なパーツの集合として、無限化していくように見えます。やがてすべての身体部分が入れ替え可能となるかも知れません。脳の情報を「情報ボックス」に保管し、老化した脳をそっくり入れ替える時代さえ、到来が予測されるまでになっています。
そのとき人間は、不死になるのでしょうか。そのような時代が来たとき、生きてきたすべての記憶情報をそのままにして身体だけを若返らせたり、かすかな大人の記憶を残しながら身体も含めて子どもに戻ることも可能となるかもしれません。
さてあなたは、心と身体の関係をどのように見ていますか。
ソクラテスあるいはアリストテレス?