続 やぶにらみ雑記帳 草野又郎

1.宇宙からの問いかけ「あなたは、いま、どこにいる」

 映画『コンタクト』は、この広大な宇宙の中で、私たち「地球人」が決して「孤独な存在ではない」ことが最大のテーマとなっています、とありました。

 ホーキング博士が来日した時の一般公開の講演会での質問時間に、ある参加者が博士に
「この宇宙に、この地球なみに文明の発達した星はどれほどの数あると思いますか」と質問した。博士は言下に(筋萎縮症ゆえコンピュータでの人造語で)「この太陽系宇宙に限らず、我々が視認している限りの宇宙全体でいえば、その数は多分、二兆程でしょう」と。
 他の人が「そんな数の惑星がありながら、我々が実際に他の惑星からの宇宙人や宇宙船を目にすることが出来ないのはなぜでしょう」と尋ねたら、博士は「どんな星でも地球のように文明が進み過ぎると、その星は極めて不安定になり、加速度的に自滅してしまうのです」と答へたとのことです(以上、講演会に出席した石原慎太郎談)。

 私の周りに、「円盤」といふ綽名がついた山仲間がゐました。彼は間違ひなくUFO(末確認飛行物体)を視たと主張してやまない。ぢや、といふことで、私も一緒に南アルプスの3千メートルの稜線でシュラフに身を入れて一晩中夜空を睨んでゐたのですが、敵さんは現れない。お互ひ運がなかつたのだと諦めましたが、ホーキング博士の言ふ2兆もあれば一瞬でも遭遇出来できさうなものですが、彼は「また視たよ」との言葉は無いまま亡くなつてしまひました。宇宙人に連れ去られたのでせうか。

 時々、新聞などにUFOが現れたといふニュースが載りますが、私はそれを否定する根拠を持つてゐませんし、なんといつても夢があつていいぢやありませんか。

 ここで余談ですが、ホーキング博士の「地球のような星は自滅する」に関して、迂闊には聞き逃せない話があります。
最近のBBCやドイツのテレビでは恐竜番組が多いとのこと。これは人類の生存に対する危機意識の高まりではないか、と。恐竜は生態系の頂点まで上り詰めたのに、ある日突然滅びてしまった。欧州人は、そんな終末論的な感覚を持っているのではないか、と。

2.パスカルの問い 私はどこにいる

 パスカルは、「空間によって、宇宙は私をつつみ、考えることによって、私が宇宙をつつむ」と。ホーキング博士も思考の世界で宇宙をいはば「掌の中」に入れてゐる、とのことです。これはバラモン教の「梵我一如」の思想ですね。かの空海も洞窟で金星を呑み込んだ、との話がありますが、口に呪文を唱へ手に印を結んで宇宙と一体になるといふ密教思想に近いのではないかと思ひます。

 同じくパスカルの「(私は)なぜほかのところではなく、このところに置かれているか」について、先生の「極端に言えば『いのちのクラウド』からコウノトリが運んできた『いま』『ここ』に存在する『偶然の私』、ということになるのです」とのご意見は、僭越ながら巧いことを仰るものだと感心してしまひます。時間と空間の多層構造で「多世界宇宙」の考え方に通じてもゐる、とも。

 難しいことは解りませんが、「私はどこにいるのか、私は何者なのか」を考へてみますと、バラモン教・ヒンズー教に共通する循環する思想「輪廻転生」が泛んできます。人は生き死にを繰り返し別の人間や生き物といった新しい肉体に生まれ変はるといふ思想は、いつ生まれ変はるかの時間の問題は「偶然」で、何に生まれ変はるのかは、縁起・因果の法則で「必然」なのかしら。また、どこに生まれ変はるのかの空間の問題はどつちなのでせう。
 
 ところで、インド人は下層階級の人でもカースト制についてあまり悲観的ではない、と聞きます。いま上層の人もいづれハエやネズミに生まれ変はるかもしれないし、自分は次は王様として国に君臨するかもしれない、と。「偶然」なのか「必然」なのか面白い問題と思ひます。

3.ホーキングの宇宙―タイム&スペース・トラベル

 「時間を自由に往来するタイムスリップ」についての話があつたやうです。
 恐山の「イタコ」はどうなのでせう。これは民俗学の分野なのでせうが、時間論的には過去を現在に持つてくる存在と言へさうですね。死者や祖霊を現在に呼び出して縁者に伝へるのを生業としてゐる不思議な存在だと思ひます。キリスト教の不可逆的、直線的時間論ではかういふ存在はあるのでせうか。キリストの「復活」はどう考へればいいのでせう。アウグスティヌスは過去も未来も全体が現在にある、としたらしい。仏教も「今この一瞬」しか存在しないとする「刹那滅」の思想があり、一方で、過去・現在・未来の「三世の思想」もあるとされさまざまです。お釈迦様は「無記」としました。

 ところで、浄土信仰では阿弥陀様があの世から雲に乗つてお迎へに来るといふ。キリストの「復活」も浄土からの「来迎」もひよつとして一部だけど重なる部分があるかもしれませんね。いづれも信仰、普及上の便宜的なものなのかもしれません。一度じつくりと考へたいものです。また、ニーチェの「永劫回帰」と「輪廻転生」の関連も興味ある問題です。

 余談ですが、前回の秋季講座「AIの哲学」で、AIによる美空ひばりの『これから』の話があり、実際に紅白歌合戦で放映されましたが、これは機械による彼女の「復活」ではなく「蘇り」なのでせうね。いきなり情緒論に飛びますが、この「蘇り」は勘弁してもらひたいです。昭和の中頃、「声色」や「声帯模写」が流行りました。これは復活でもなく蘇りでもないでせうが、幽玄亭玉助や桜井長一郎など、政治家や芝居の役者や映画の俳優などの真似にはその迫真さに感心したものです。

 今も芸人が人マネやつてゐるやうですが、あくまで、人が人をマネてゐるのであり、コンピューターが人をマネてゐるわけではない。AIひばりを観て感動して涙がこぼれた人も少なからずゐたとのことですが、どうやら私は「人から人へ」は認めても、「機械から人へ」の蘇りには馴染めさうもありません。

4.生命は宇宙から来た―フレッド・ホイルのパンスペルミア説

 フレッド・ホイルの「定常宇宙論」なるものを初めて知りましたが、「宇宙はどこから見てもいつも変わらない風景として存在する」、つまり、宇宙は定常的に保たれるとの説は、エアコンのサーモスタットみたいに環境を一定に保つといふことと同じで、宇宙にフィードバック機構を持たせたものではないかと思ひました。

 ところで、プラトンの対話編『テイマイオス』に、空から落ちてきた天体が、災害や疫病をもたらした、との話や、フレッド・ホイルの「パンスペルミア」が出てきました。関連して「天から落ちてきた」「天から降ってきた」の話がレジメにありました。

 旧約聖書の「出エジプト記」に、天から降つてきたマンナの話がありますね。新約聖書ヨハネ書には、イエスが「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。私は天から降って来たパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである」と。
 
 サタンは天から落ちてきたらしく、イザヤ書には、主は「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と。
 モーゼやムハンムドは神の言葉を聴きました。ミカエル、ラファエル、ガブリエルなどの天使たちは天の使ひとして地上に降りて来たのでせう。「天からの啓示」や「天のお導き」とか「天の声」「神の声」なんかも天から降つて来たものなのでせう。
 
 日本神話では、有名な「天孫降臨」の話があります。邇邇芸命が、葦原の中つ国を治めるために、高天原から高千穂峡へ天降つたとのことです。

 神も天使もパンも天から降つてきた、と。ところで、空を飛ぶ天人を「飛天」といふらしく、それはただ空を飛ぶだけですが、「天女」は時々地上に降りて来るさうです。また、「雷が落ちた」「雨が降つてきた」と言ひますが、俵屋宗達の「風神雷神図」では、雷は太鼓を鳴らして、風雨は風袋から吹き出してゐますね。奇抜で楽しい絵です。

 人間は天に憧れるものと思つてゐましたが、プラトンの『テイマイオス』では、空から落ちてきた天体が「災害や疫病をもたらす」といふ。となると厄介なことになりますね。「今や星間物質は細菌であると思われる」(フレッド・ホイル)とは恐ろしい話です。

5.私がいるからこの宇宙がある―「人間原理」からの発想

 「宇宙の話と哲学がどうつながっているのか」「私という存在は何なのか」などのお話があつたやうです。「人間とは何か」を考えるにあたって、映画「アンドリュー」にある「家事手伝いのロボットが、次第に自我に目覚め、注文主から離れて独立した意識体として存在し続け」るといふ話がありました。

 このロボットを人間の子供に置き換へると、まさに子供が自我に目覚め、親の手から離れて大人に成長してゆく人間の成長過程の物語と読めさうです。或いは「蛹から蝶」への変化・成長も同じかもしれない。

 アンドリューという名のロボットは「奇妙な科学者によって、体内の機械を人間と同じ形、機能をした人工臓器に置き換えてもらってゆ」くことは、「脱皮」と言へるかもしれません。しかし「脱皮」といふのは「変化」ではあるものの「成長」と単純に言へるのかは、人間が肉体的に成長しても人間的には悪に染まる結末を迎へることがあるやうに、一概に、ハッピーなことと喜べないこともありませう(まあ、それが人間の人間たるところなのでせうね)。アンドリューはハッピーな最後だつたのでせうか。

 さて、もつと深く大きく宇宙まで広げ、その誕生から138億年の歴史を大急ぎで乱暴にまとめると、完全な「無」からの「ビッグバン」が起こり、水素の形成から無数の恒星、惑星が生れ、地球が誕生した、とのこと。この地球はたまたま太陽からの距離が最適だつたためか、そこで生命が誕生し、進化して、精神性を持つた人類が誕生した、と。

 まあ、さういふことらしいと、私は俄か仕込みで得た科学的?知識に留まるばかりで、「人間は何処から来たのか」、「私という存在は何なのか」、「人間とは何か」との哲学的問ひに答へるだけの知識も教養もありませんし深く考へたこともない。ただ、これからはその答へを求めてゆく姿勢を少しは哲学らしきものを齧つた者として持ちつづけててゆきたいと思つてゐます。

6.ニーチェとホーキングを結ぶエントロピー増大の法則

 昨今騒がしく議論されてゐる地球温暖化は、エントロピーが増大する方向に進んでゐることになるわけで放置できない問題ですね。でも、いろいろ対策を採るにしても、そもそもこの地球に人間が生きて活動してゐるかぎり、一般的には大気の温度より人間の体温のはうが高いのでそれだけで考へればエントロピーが増大するのは当たり前といへば当たり前となりますね。屁理屈かしら?
 
 アラン・ブルームは「ニーチェは文化の衰退によって精神の弓が張りを失い、永久に緩んだままとなる危険について論じた」とし、文化の衰退は人間そのものの衰退を意味し、これを「精神のエントロピーの増大」ととらえへた、とのことです。ブルームの謂ふ「文化」が具体的に何を指す分かりませんが、文化とは秩序ある状態(つまりエントロピーが少ない状態)を指すとしたら、さうとはかぎらないのではないか。

 私の考へでは、そもそも「精神のエントロピーの増大」、「精神の弓の張りより緩み」が、文化、風俗、芸術を齎す面が大きいのではないかと思ひます。例へば、映画・演劇、文学、一部の音楽(ジャズ、演歌など)、などなど大雑把で大胆に言へば、エントロピー増大の方向、つまり、秩序より無秩序への、キッパリさから曖昧さ、諧調から乱調への状態へ向かふ文化に価値を見出してゐるのではないか。ついでに言へば、「美」は乱調に宿るとも言へるのではないかと思ひます。そもそもニーチェはアポロン的よりもディオニソス的なものに価値を置いたのではなかつたか。

 もちろん、秩序・調和・諧調に価値を置くのが「正調」であるかもしれない。古代ギリシャの彫刻や建築物のやうな均斉と調和の美しさがある。一方で、歪んだ真珠と謂はれるバロック様式もある。書で謂へば「楷書」もあれば「草書」もある。陶器はわざわざ割れ目を出したり、歪ませたりする。枯れた美を感じさせる。

 世の中も「正調」だけでが動いてゐるわけではありません。世界も日本も、人間の歴史は「治」と「乱」、「静」と「動」、「清」と「濁」、まさに「秩序」と「無秩序」の繰り返しであつたと思はれます。
 
 また、エントロピーが低いといふことは、上の喩へで言へば、「清」が大きく「濁」が少ない状態ですが、これは一面、社会生活上、堅苦しい、曖昧さを許さない、自由が制限されさうで、何より多様性を失いかねません。そして、人間の厚み、豊かさ、奥行き、味はひなどを醸し出すのは「清濁併はせのむ」形がよろしいのではないでせうか。
 
 余談ながら、日本の鉄道の運行時間の正確さは世界一で、まさに日本人の几帳面さの表れでこれはこれで素晴らしい。一方、時間なぞ全くと言つていいほど気にしない国もある。
 同じ日本人でも曖昧さを許さず、厳しく物ごとにあたる人もゐる。田辺聖子の好む「まあ、ええやんか」「まあ、こんなとこちやうか」「まあ、別にええのんちやうか」などの言葉で曖昧に済まさうとする人たちもゐる。人間が、社会が、「成熟」するといふことはエントロピーがほどほどの状態であるといふことが必要かもしれませんね。

7.ホーキング博士とかけてアリストテレスと解く―その心は

 ホーキング博士は、「虚時間」といふ極めて有効な補助線を引いたといふことでせうか。頭のいい人は巧い具合に「虚」によつて、神をもやつつけてしまふのですね。

 ところで、プラトン(ソクラテス)は、魂(心)は身体といふ牢獄に閉じ込められてゐて、死は身体の消滅により魂が解放されるのだ、と。対して、アリストテレスは、「魂によって身体は保持されている」ので、死は魂(心)の消滅による身体の消滅だ、といふ。
 
 私は心情的に魂は死後も存在する、(ヘンな言ひかただけど)「虚」として在りつづける、のではないかと思ふ。いや、さうあつて欲しいな、と。
 よく、「私が死んだら天国の父や母に逢へる」、「先に死んだ子や恋人に逢へるのだ」とか、死んだ友人に「俺もすぐ逝くからあの世で会はう」、なかには、「天国で酒池肉林だあ」と期待する人もゐる。心底では信じてゐなくとも、さうあつて欲しいな、と思ふのは人情ではなからうか。(心底から信じられる人ほんたうの信者は羨ましいな、と思ひます)
 
 以下、最近目にした記事、東日本大震災の被災者ご遺族の言葉を引用します。
「私にとって何が希望かといえば、自分が死んだときに妻や娘に逢えるということだけです。それには魂があってほしい。暗闇の向こうに光があるとすれば、魂があってこそ逢えると思うのです。それがなかったら、何を目標に生きていけばいいのですか」

「死んだ先でも私を待っていてくれるという妻の言葉こそ、私には本当の希望なんです。いつか再会できるんだという一縷の希望が持てたからこそ生きてこれたのだと思います」と。