続々「響き合う議論」:「ありのままの私」とは誰のことか

          -デリダ、パスカル、そして「アナと雪の女王」

 前回(2014.11.25)は「哲学とは何かの問いをめぐって、実に奥深い討議の場となりました。「死者は私たちの一部として生き続けているのではないか」とのディズニー総合プロデューサーの声に、さっそく一人が反応してくれました。「臓器移植のニュースを聞くと、ああ死んだ人は死んでいるのではなく、新しい体の中で生きているのだ、と不思議な感覚にとらわれます」

 それから、次々と多くの反応が続きます。
「善く考えることは、善く生きること。善く生きることは、善く考えること。そのように思うようになっています。善く考えるということは、確実性と確信につながる。これが論理的な思考であり、デカルトに通じる感じがする」。
「哲学とは考えることだと思ってきました。ただ、思考力がだんだん狭くなってきている。皆さんのお考えを伺いながら、考えることを楽しんでいきたいと思います」(90代の受講生)
「自分は何のために生まれてきたのだろう、と昔から考えていました。それを考えるのが、哲学なのかな、と」。
「人間とは何か、時間とは何かなど、普遍的なことを考えるのが哲学かな」「哲学は好奇心の果てにあるもの、好奇心がふくれあがったものではないか、と思う」
「愛知ばかりではなく、時代を問わない生きるすべを探究する学問ではないか」
「高倉健主演の鉄道員をこの間また観る機会がありました。人生みな成り行きで生きている、という原作者の倉本聡の哲学観が、この映画にはよく出ている、と思います。その成り行き的なひとそれぞれの生き方を、彼は温かい目で認めていますよね」
「それぞれの人に、生き方のスタイル、判断がある。それが哲学なのじゃないか。スポーツも芸術も、上にいけばまた広い世界があるのではないか、そこにいかなければ見えない世界がある。その世界が、横のレベルで、通じているのではないか」
「実はディズニーのアナと雪の女王の歌を聞いて、腹がたって仕方がなかったのです。ほら、あの歌があるでしょう。~ありのままで~、『ありのままの姿みせるのよ、ありのままの自分になるの』と。ありのままでない自分ってどこにいるのか?嘘の自分でなんだ。すべて本当の自分ではないか。ドイツの詩人の言葉で、残念ながら私は偽悪的に生きるほど単純ではない、と言っていますが、ようは、全部ありのままじゃないか」

https://www.youtube.com/watch?v=cvj3-MZO9Tw アナと雪の女王

 この盛り上がり、いいですねえ。私も、哲学観を披露しました。私の考えでは、哲学は世界を開き私自身を開き、自由にしてくれるものです。これまでにない世界が開かれることによって、私たちは新たな勇気や元気をもらい、生きてい行くことがより楽しくなります。そのような力を切り開いてくれるものが、哲学であり、哲学的言辞なのではないでしょうか。ディズニーの総合プロデューサーの話は、そのような一つの例だと思うのです。

 これに対しても、「ぼくはDate is now を大切にするのが哲学だと思う」「私も考える。あの人も考える。みんな考えている。みんなが平等に考えている。これって、凄いことだと思うのです」などと続きます。パスカルの「人間は考える葦である」について、一人が「人間は葦であることにポイントがあると思う。葦をつまらないものだと決めたのは誰なのか。人間は葦でなくていいのではないか」と発言。別の一人が「パスカルにそのように考えさせた動機は」と聞いてきます。
「何度かお話したことがあるかもしれませんが、パスカルは『私は、いま、なぜ、ここに生まれて存在しているのか』を問い続けていました。そこから、彼のさまざまな名言が生まれてきたのです」
 と私。こうして、私たちの談論はもう一度の盛り上がりを見せます。

 さて、ジャック・デリダの名前が出てきましたから、今回はデリダに登場してもらいましょう。お一人の「アナと雪の女王」についての発言とつながっていて、実に興味深いものです。

 デリダに『たった一つの、私のものではない言葉』なる著作があります(守中高明訳、岩波書店、2001年5月)。彼は、フランス植民地時代のアルジェリア・マグレブ(首都アルジェ近郊)生まれのユダヤ人で、フランス語を母語として育ちました。彼自身が自由に使いこなしているフランス語は、彼自身の母国アルジェリアからすれば「他者の言語」です。デリダは、フランス語しか使えないのに、それが他者の言語であることに悩み続けました。彼の血が背負っている母国の長い伝統や文化の中で生まれ育ちながら、異国の言語を住処とするある種の居心地の悪さから生まれたのが、この本です。
 デリダの結論は、言葉というものは、一つの文化・社会・歴史の産物であり、この言葉の中で生きることがそのまま自己のアイデンティティーにつながっているわけではない、ということです。むしろ、一つの言語は、存在を固有化し、それ以外のものを剥奪する作用があるのです。これは、ハイデガーが「言葉は存在の家」(ハイデッガー『ことばについての対話』手塚富雄訳、理想社、p.11など)と言ったことに対する一つのアンチテーゼであり、われわれはある種強制的に、一つの「家」へと追いやられている、ということになるでしょう。

 私たちが「ありのまま」だと思っていた自分が、実は多様な可能性を母語の使用によってはぎ取られた、ある意味では残り滓のようなものであることを、デリダは発見したことになります。それが、パスカルの深遠な問い「わたしは、なぜ、いま、ここに存在するのか、その理由を見つけることができない」(『パンセ』194)へと密接につながっていることを私たちは見出すことでしょう。パスカルは言っています。その部分をあげておきます。

「私は、だれがいったい私をこの世に置いたのか、この世が何であるか、私自身が何であるかを知らない。私は、すべてのことについて、恐ろしい無知のなかにいる。私は、私の身体、私の感覚、私の魂、そして私のうちのまさにこの部分、すなわち私のいま言っていることを考え、すべてのことと自分自身とについて反省し、しかも他のものについてと同様に自分自身もしらないところのこの部分、これらのものが何であるかを知らない。私は、私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大な広がりのなかの一隅につながれているのを見るが、なぜほかのところでなく、このところに置かれているのか、また私が生きるべく与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠のすべてと私よりも後にくる永遠のすべてのなかのほかの点でなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない」(パスカル『パンセ』前田陽一ら訳、中公クラシックス、p.141-142)

 「私という存在」は、お隣の韓国や中国、あるいは遠く離れたアフリカの「家」に生まれていたのかもしれません。その土地の「言葉の家」で育ち、その土地の言葉で考える「私」を想像したとき、それはいかなる「私」なのか、私たちはどこまで想像できるでしょうか。どこの時代の、どこで生まれようと、変わらない「私」の核のようなものは、果たして在りうるのでしょうか。

 デリダは、その存在のありかを、プラトンの「想起」(アナムメーシス ἀνάμνησις)に求めているように思えます(『たった一つの、私のものではない言葉』p.126)。つまり、世界に生まれ落ちる以前に、私たちであったところの「私」を、私たちは実は必死になって思い出そうとしている、その「私」が「ありのままの私」ではないか、ということです。未来に、一つの理想的な私の姿を思い浮かべ、そこに至ろうとするのが、一つのイデアの追及だとすれば、「想起」は「かつてあったところの私」への探索と言えるでしょう。

 ほかならぬ私自身は、どちらかといえば「ありのままの私」で生きている、と思ってきたものです。しかし、私が「ありのままの私」だと思っていたその私のイメージが、まったく狂う出来事がごく最近ありました。たまたま大学の通路角に、縦長の大きな鏡があり、自分が歩いている姿を正面から見る機会がありました。驚きでした。自分はこんな風に歩いているのか!それは、何ともギクシャクした奇妙なもので、いつも「おかしな歩き方だ」と感じていた大学の同僚の歩き方とそっくりだったのです。少なくともそれは、私が「ありのまま」だと思っていた私とは、別人を思わせるものでした。

 たかが歩き方だけで、この巨大なズレです。私は、いささか自信をなくしています。私が私だと思っているこの「私」ともし対話することができたとしましょう。「私」は自分が心の中で常に対話している自分と、同じ「私」をそこに見ることができるでしょうか。この最近の出来事は、私に学生時代のある出来事を思い出させることになりました。ある歓迎会の席上で、部活の仲間から「この男はご覧のようにC調で」と紹介されたのです。C調とはハ長調のことで、「やたらと調子のいい男」という、自分では思っても見ない見方をされていることを知らされたのです。自分が見ている「ありのままの私」は、「真剣で慎重」な男です。それがなぜスーダラ節の植木等演じる「わかっちゃいるけど、やめられない」的なイメージに転化してしまったのでしょうか。

 「身体」が形や動作によって「私」を表現するとすれば、「心」は話の口調やその内容によって、「私という存在」を表現します。鏡が私に、身体のイメージのズレを教えてくれたように、その部活の仲間は私の心のイメージのズレを教えてくれていたことになります。

 さて、皆さんに伺いたい。皆さんにとって「ありのままの私」とは何だと思いますか。それは、アリストテレス的に言えば「私のウーシア(実体)とは何なのか」の問いにほかなりません。「ありのままの私」を覆い隠すことなく、生きてきたと思いますか。それとも私と同じように、自分自身が思い込んでいる「ありのままの私」と他者の目とのズレに戸惑ったことはありませんか。本日もまた、大いに談論したいと思います。