草野又郎の洒脱哲学

1. 哲学者へのアプローチ

 今回の講座のテーマ(「あなたが選んだ哲学者を材料に、あなた自身が社会の問題や世界の問題、そして人生の問題について、回答者の役割をしてもらう」)は、今迄の受講生それぞれのレベルに相応した対機説法から、講座が重なるに従れてレベルアップされた受講生全員への次第説法の段階に至つた印象で、足掛け15年に亘る講座も最高潮に達した感があり、感慨深く、同時に羨ましい思ひでゐます。

2.レヴィ=ストロース  構造という名の呪縛

  「哲学とかけて何と解く」とは、まさに「哲学的な問ひ」ですね。
   桃と山椒と解く。心は、驚き(木)から始まる。 
道ならぬ恋と解く。心は、痴(知)に溺れる           
さて、構造主義ですが、たしかに便利で分かりやすいのですが、それだけに短絡的に宿命論や決定論に繋げたくなります。言語も自分が生まれる以前から母親からインストールされている、と考えれば、これも「構造」なのかもしれません。いづれにせよ、「神」を持つてくれば世の中全てが解釈できるのではないか、と思つてしまひます。
「言葉という下部構造によって世界の見え方が違う」の意味は、ソシュールの言語記号の構造の「シニフィアン」と「シニフィエ」と相ひ応ずるものと勝手に解釈します。
「皆さん自身が、どのような構造の基で縛られているか」については、カッコよく「自分の美学」と言ひたいところですが、さうありたい、これに縛られたい、と思つてゐるだけで、なかなかどうしてうまくはゆかないものです。

 ところで、山本七平の謂ふ「空気」も日本人の心の構造なのでせうね。

3. メルロー・ポンティ 身体は心の奴隷にあらず

 一歩進んで、といふか、時代を遡つて、空海の、宇宙と身体を合一する、も面白い。
 プロティノスもさうみたいですね。なにやら神秘的なものに憧れます。
「両義的な私(という概念)」を「矛盾のなかの私」と置き換へると、オスカーワイルドの「人は心のなかで、神と悪魔が闘つてゐる」ぢやないですが、人間は矛盾があつてこそ成長するものだ、といふのが私の考えへです。矛盾は人に考える力を与へてくれる。考へ、悩み、葛藤を経て、初めて矛盾を乗り超へ新しい天地がひらけるのではないか、と。これ私式弁証法的人生論?!話がズレてしまひました。すみません。

4.丸山真男  ステレオタイプから脱却せよ

 「私たちは物事を自分の都合の良いステレオタイプにあてはめて判断する傾向があり、自分の都合の良い事実を選んでその判断を正当化する」のは最近よく見聞きします。
  とくにSNSだかツイッターだか、またコメンテーターだかが無責任に言及するのはみつともないのでやめていただきたいですね。ひどいのはフェイクまで飛び出してゐます。自分が言ふことは正しい、実現する、と思ふのは、精神分析の専門家によると極めて幼児的な行動とのことです。ご都合主義で自己絶対化の行動とも言へさうです。

5.死のシンギュラリティー

 前回の丸山真雄について二,三の方の発言があつたやうです。丸山氏が軍隊経験で、中学にも進んでゐないであらう一等兵に執拗にイジメぬかれたことについて、彼は「実際、軍隊に入ると『地方』の社会的地位や家柄なんかはちっとも物をいわず、華族のお坊ちゃんが、土方の上等兵にビンタを食らっている。なんかそういう疑似デモクラティック的なものが相当社会的な階級差からくる不満の麻酔剤になっていたと思われるのです」と語り、さらに「日本の軍隊が持っていた、そういうパラドキシカルな民主的性格というものを、もっと言っておかないといけないんじゃないか」と語ったとのことです。

 彼にしろ、大岡昇平にしろ、山本七平や大西巨人、吉田満にしろ、知識人といふものは、軍隊生活のなかで学ぶべきものはちやんと学んでゐるものだと今更ながら感心します。
さて、「死のシンギュラリティー」。「不死の状態を得た「私」とはいかなる存在か?」。

 私の読んだ限りでのフロイトにはかういふ前提での問題意識はなかつたやうですが、このときの、彼の謂ふ生の欲動「エロス」と死の欲動「タナトス」はどうなつてしまふのでせうか。興味あります。不死の私のとき、哲学者は?宗教家は?科学者は?・・・・・・我々は何も考へえない?分からないことは分からないままにそつとしておく?、或ひは切り捨ててゆく?、なるやうにしかならない?

それとも「AI」に任せる?

杞憂としたいものです。

6.ショウーペンハウアー  ナマケモノがナマケモノである理由

 「意思の力によって世界を無化するこの精神のあり方は」まさに「般若波羅蜜」ですね。一方、彼の「世界は苦悩と矛盾に満ちてゐる」は仏教の「一切皆苦」で、苦を払ひ退けるには「禅定」なり「解脱」しかありません。我々凡人には出来つこないし、そもそも人生思ひ通りにはゆかないもので、挫折と矛盾のなかでしか生きやうもないと思つてしまひますが、彼に影響を受けた(らしい)ニーチェは倫理的に芸術的に解脱しようとした?

凄い人ですね。

7.ドルーズ:リゾーム、プラトー、可能的世界としての他者、そして・・・

 2007年の「14人のプラトー」、懐かしいです。自由に伸び伸びと発言してゐたやうに思ふと同時に、いかにも幼い未熟さもあり(今もさうだけど)、恥づかしい思ひです。
 さて、(8)に出てくる「偶然」についてです。
 極論ではありますが、世の中の殆どすべての物事は「起こるべくして起こる」ものと考えへます。仏教典の謂ふ縁起・すべては関係性のなかで出来する、といふことです。

 歴史はその時代に生きてゐた人たちの考へ方、生き方が現れたものですが、あらゆる事象はその人個だけではなく、あらゆる関係性のなかで生じたものであらうと考へます。この意味で歴史に非連続・断絶はあり得ない。社会、人間のDNAは途切れることなく一貫してゐます。しかし、しかしですね、もし自分が数億円(実は十万円でも欣喜雀躍だけど)宝籤で当たつたら、なんて想ふと「偶然」もありかなと。でも、これも「神」が登場すると必然であることは言ふまでもありません。偶然それ自体が必然なのでせう。

8.哲学とは? 箸休めの質問に答える

 「問いを立てる」ことが哲学といふことで、以下の「問ひ」をいづれかの機会に受講生の皆さんに投げかけたらいかがでせうか。
 ・道徳の規準を何によつて定めるか。異文化間の道徳を決裁する基準は定め得るのか。
 ・(9)の「本質」に関連して、人は他人の本質を解ることができるか。
 ・「一週間以内に確実に大地震が起きます」と予告されたら、あなたは何をしますか。

9.アリストテレス 「本質」とは何か

 「人を評して「変わっている」「クレージーだ」「太鼓もち」などの表現は、その人がどのような人間と見られているかを、一言で表しています。本人はそう思っているとは限りませんが、他人からみればそれがその人の「本質」と見られているのです」とあります。

 人が「自分が何者であるか」を自覚できることさへ難しい(少なくも私がさうだし、いい年して未だに「自分探し」をしてゐる人もゐる)のに、他人が何者であるのかを解るのは更に難しいものではないかと思ひます。犯罪者が捕まると、よくテレビかなんかで近所の人や友人が、「彼は普段挨拶もするし、親孝行もしてゐて、心優しい人で、犯人だなんてとても信じられません」との感想が出ますが、ことほど外見だけでは判らないし、まして他人の「本質」まで解るのは余程の慧眼の持ち主以外では困難と思ひます

 (「人は見た目が九割」なんて無責任に言ふ人もゐます)。

 これを「本質」と「現象」、「本質」と「事実」の違ひ、なんて大上段に振り
かぶるつもりはありませんし、そもそも本当に普遍的で包括的な「本質」なるものが掴み得るのかもよく分かりません。これに関連するかどうか分かりませんが、フッサールの「本質直観」なるものを勉強したいと思つてゐます。

10、「昭和の天才」仲小路彰の未来学「自愛即他愛」

「AIが人間の知能を追い越すとされる2045年のシンギュラリティ(技術的特異点)を迎えたとき、私たちはAIの完全な奴隷と化しているのでしょうか、それともAIに愛を与えることに成功しているのでしょうか。」
最後に「AI」が出てきました。そこで、「AI」に関しての「問ひ」です。

・AIで、犯罪の可能性が高いと判断された人間を犯罪前に予防のため拘束したり人格の改造を行ふのは許されるか。
(中国ではチベットや新疆ウィグル地区で勝手に犯罪と称して実施中だが)。
 ・AIで「あなたは社会に不要です」と判断されたらどうしますか。
 ・AIを完備したロボットと親しくなることは出来るか。
 ・AIと酒を飲めるか。

 8.の「哲学とは?」と同じく、皆さんのご意見を伺ひたいものです。