談論2 善への道は、的の中心を射抜くがごとし

              (アリストテレス)   

 前回、一人の受講生が、トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』におけるロビンソンが、人間という他者を喪失して孤独になったとき、「島という他者」、すなわち「物世界」と一体になることによって自由になったのではないか、との論調に異議を唱えました。現代においては、一見豊かなモノ社会の裏で格差社会が進行し、孤立や孤独に追い込まれている若者や老人が増えている現実を問題にしたのです。そして、格差を生みだす元としてフランスの経済学者ピケティが唱える金融資本による富の偏在をあげました。

 ピケティは日本を含む英国、米国、スウェーデンなどの税務統計を過去200年にさかのぼって収集し、資本収益率が経済成長率を常に上回っていることを明らかにしました。資本による利益率が4~5%に対し、労働の結果としての利益率は1%程度に過ぎず、「働かざるもの食うべからず」の反対で、「働かないものがより食える」現状が見えてきたのです。株、債券、不動産といった資本・資産でもっぱら稼ぐひとたちと、勤労労働だけで稼ぐひとたちとの収入格差は、時間がたてばたつほど拡大します。とくに受け継ぐ子世代の人数が減少していく日本のような少子化社会では、子世代一人当たりの資産が増えることになり、持てる者と持たざる者との格差はより開いていくことになります。

 これに対して、いつものようにさまざまな声が出ました。「金持ちが努力もしないで利益をあげている、というのには語弊がある」「政治家や官僚が、悪意をもって国を動かしていることに問題の根源がある」「格差をなくすのは簡単にできる。累進課税を厳しくして、金持ちからたくさんの税金を取れるようにすればいい。それをやるかやらないかが問われるのであって、やろうとする方向に向かわない政治に問題がある」「社会から隔離されて孤独になっているというより、自ら進んで孤立する道を選んでいる者も多いのではないか。モノがあふれているある意味で豊かな時代がそれを許しているのだと思う」「このままでは、シュペーグラーの『西洋の没落』が現実のものになりかねない」

 現代のモノ社会は、インターネットによるWeb閲覧・検索が当たり前になり、個人がメディアにもなるソーシャルネットワーク(SNS)の発展によって、私たちはモノの表面で乱舞する二次元の情報社会の中で生息している生物のような観を呈しています。「ゲームやSNSの世界に生きている若者が、三次元ってそんなにいいものなのですか、と問いかけているのをテレビで見て、現実はそこまで来ているのかと、心底驚いた」との一受講生の報告は、モノ社会の行き着く先の肌寒い現実を示唆するものなのでしょうか。

 格差議論は、何が善いのか、何が悪いのか、の価値観につながるものです。ピケティは資本による利益を悪だとはしていませんが、「民主主義が資本主義の奴隷になっていることが問題であり、民主主義が資本主義をコントロールするようにならなければならない」とし、資本利益に対して累進課税をグローバルレベルで行い、利益を再分配すべきことを提案しています。

 ピケティは、アメリカを例に、持てる者がより大きな利益を得られる教育を手にし、持たざる者はそうした教育を得られない社会になっている現状にも危惧を抱いています。アメリカのハーバード大学の授業料は年間500万円を超え、学生家庭の平均所得45万ドル(~5000万円)は、富裕な上位2%と一致する、といいます。これは世界的な傾向で、中間層の没落と貧困層の拡大に拍車がかかり、社会の大きな不安定要因になっていることをピケティは指摘します。「1%の人たちが、金融市場を利用して9割の富を独占している」をスローガンに、ニューヨークで起きたデモは、その象徴的な現れというわけです。
 (ピケティの話は、『週刊東洋経済』2014.7.16、NHK「パリ白熱教室」2015.1.23 による)

 前回あげたアリストテレスの格言「善人への道は一つ、悪人への道は千差万別」が正しいのか、それとも、逆に「善人への道は千差万別、悪人への道は一つ」なのか、改めて何が善で、何が悪であるか、を「言(こと)立てる」(言葉で話す)ことによって、善悪の輪郭を明確にしていくことにしましょう。まずは参考までに、ルソーとニーチェの善悪観をあげてみます。

 ルソーは「人間はその行動によって自由であり、自由な者として、非物質的な実体によって生命をあたえられている」と考えます。非物質的な実体とはもちろん神のことですが、彼は「神は、人間が悪いことをするのをさまたげない」との立場をとります。そして「人間よ、悪をもたらす者、それはきみ自身なのだ。きみが行っている悪、あるいはきみが悩まされている悪のほかには悪は存在しないし、それらの悪はいずれもきみ自身から生まれるのだ」と言います(ルソー『エミール』今野一雄訳、岩波文庫、p151-154)

 ニーチェは、大衆に暗愚を見るプラトンの立場に立ち、その衆愚の本質にあるのが人間の善そのものであると、あの辛辣な調子で、言いたてます。
「ことに『善良な人間』と自称する者たちが、もっとも有毒な蠅だった。彼らは何の責任感もなく刺し、何の責任感もなく嘘をつく。どうしてかれらにできよう、わたしにたいしてー公正であることが」(ニーチェ『ツァラツスゥトラ』「帰郷」、手塚富雄訳、中央公論社、p.278)

 ツァラツスゥトラは、プラトンの『国家』でいえば、大衆から疎んじられる「ほんとうの哲学者」にあたります。そして、人間の未来にとって最大の危険は、「善い者」のもとに私たちがあることだ、と、次のように語りかけるのです。

 「おお、わたしの兄弟たちよ、人間の未来全体にわたっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるか。それは善い者、正しい者たちのもとにあるのではないか。つまり、かれらは次のように語り、次のように感じている。『われわれはすでに、何が善であり、正義であるかを知っている。われわれはまたそれを身につけている。まだそれをさがしている者にわざわいあれ』と。よし悪人がどんなに害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、最も害のある害である。たとえ世界誹謗者がどんな害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、最も害のある害である。…
 かれらの精神は、かれら自身の『やましくない良心』という牢獄のなかに囚われており、測りがたく怜悧なのが、善い者たちの愚鈍さだ。…善い者たちは、独自の徳を見いだした者を、十字架にかけざるをえない。これが真実のすがたである」(同「新旧の表」p311)

 さて、善人とはニーチェのようなものなのか、それともルソーのように私たち次第でほんとうの善への道が切り開かれるのか、アリストテレスは、的の中心を射抜くことが善への道であってそれほど難しく、私たちの行為のほとんどがはずれて悪の道に至る現実を示したのですが…。

 ここから、実に素晴らしい議論が巻き起こりました。それはまた次回に。