談論3  善と悪の諸相

 前回の問い、アリストテレスの言う「善人への道はただ一つ。悪人への道は千差万別」(『二コマコス倫理学』1106b30)は、逆ではないか、の問いかけは、善とは何か、悪とは何か、を巡っての百家争鳴、実に有意義な論議へと発展しました。

 「悪への道も千差万別ではないか」と先陣を切ったお一人は、「新婚の妻が夫に一生懸命料理を作り、夫はおいしいおいしいと食べ続けた結果、太って健康を害したとしましょうか。善いと思ってしていたことが、悪い結果を招く。このように、善意でやったことが悪をもたらすということがあるのでは。また、首汚すまじと首洗う、という死刑囚の句を思いだしました。死刑になるような悪いことをした人でも、そこまで気を遣えるなら、なぜそのような犯罪をしてしまうのだろう、と不思議な気がします」。

 別の受講生は、朝日新聞に連載された「リレーおぴにおん『私の悪人論』」のなかから、興味深い意見を紹介してくれました。

 「自分を善人と信じ込んでいる人が逆に悪人に近い」(俳優、宇梶剛士)
「本当の悪人とは、法に反すると同時に、自分の良心に反する、つまり自分自身を偽るような行動を取る人間のことだ」(元大阪地検特捜部検事、田中森一)
「動物の世界には善悪は存在しない。人間も動物だから、欲望の原理に支配される。欲望の暴走を防ぐために、人間は善悪の基準を作った」(脚本家、ジェームス三木)
「古代ギリシアには正義、思慮、勇気、節制の四徳あった。民主主義社会で問題なのは、徳の実践が極めて困難であることを知ろうとしない人たちが、単なる多数意見を善として押し通そうとするところにある」(評論家、西部邁)

 以下、それぞれの方のご意見を紹介します。

 「社会現象で考えたいが、西洋哲学と人類学とのせめぎ合いが起きている。典型的なのは西洋文明とイスラム圏の衝突がある。ベトナム戦争でアメリカが敗北してから、周縁と中心の関係が変わってきている。さらに、ITやネットの発達で価値観が混在するようになっている。文明について来れない人たちも現れている」

 「善悪の基準がさまざまだ。善の道も悪の道もないのではないか。自分の中にしかない」

 「善と悪は半々だと思うのです。ただ、悪は善の中に巧妙に隠れていて、表面上は善が社会を覆っているように見えるのではないか」

 「死刑をどう考えるかで、教育系論と応報系論のどちらが正しいのか、どちらかでなければならないような論議がある。善人か悪人かの議論も同じ。悪人でも善人になることもあれば、善人でも悪人になることもある。二律背反的な見方から離れなければならないのではなか。STAP細胞事件の小保方さんのことも同じではないか」

 「文学的には善と悪は表裏一体、ですから。ぎりぎりでいけばリヤ王にいってしまうのか、なと。小保方さんの問題で言えば、『日経サイエンス』の2月号はどんなミステリーよりも面白い」

 「『トム・ソーヤの冒険』のマーク・トゥエインに『人間とは何か』(中野好夫訳、岩波文庫)という本があって、人間は自分の意志では動いていない。人間は外部からの影響で動いている。心は人間から独立している、など、興味深い記述がいくつもある。人間は、善悪の判断などしていないとも書いています」

 「彼は、『ハックルベリー・フィン』あたりから、人間不信、人間嫌いを思わせる表現が目立ってきたと思う」

 「善と悪はどろどろになって一体となっていて、善だと思ったことが悪になったり、さじ加減で違ってくる。息子が高校に入ったとき、ある外国の人が『立場をわかる人になれ』といってくれたことが忘れられない。この話は、前回の、思い込み、真なる思いなし、の話とつながっているのではないか。『立場を理解する』とは、自分自身を真なる思いなしの位置に置くことだと思う。私の好きなソクラテスの言葉、知は徳である、は、その位置を知ることが徳ある行為につながることを言っているように思う」

 「うちの庭に三種類の鳥が蒔き餌のエサを食べにくる。大型の鳥と中型の鳥、そして小型の部類に属するスズメ。中型の鳥は、スズメを押しのけてエサを食べてしまうので、コイツ悪い奴だ、とつい思ってしまう。大きい鳥はスズメを追い払わず一緒に食べている。しかし、この中型の鳥は、エサがどこのあたりに蒔かれるか、など、なかなか努力している。人間から見ていると悪い奴だが、しょうがないな、と。生き延びるためですから」

 「人間には善の部分も悪の部分もある。完全な善人も、完全な悪人もいない。悪は善に利用されている。善は悪を利用しているのではないか。キリスト教の神は、自分を際立たせるためにサタンをつくったのでは。俺は善だ、と主張する人は本当にはた迷惑。グローバルな基準は、多様性を失わせると思う。悪のほうが楽しいけど」

 「皆さんの話を楽しませてもらっています。人間の思考力や性格が、脳科学でどれだけわかってきているのか、と『脳科学とその現状』という講演で質問したら、『まったくわかっていない』という話でした。心理学でひとつの絵図が見る人によってまったく違って見えるテストがありますね。善と悪も見る人によって異なって見えるのではないか」

 実に多彩、味わいある、善悪論になりました。ありがとうございます。

 「イスラム国」の人質になって殺害された後藤健二さんの事件を見るにつけ、フラナリー・オコナー(1925-1964 アメリカ)の短編小説A Good Man Is Hard to Find『善人はなかなかいない』(横山貞子訳『新・ちくま文学の森16』心にのこった話」筑摩書房、1996.1)を思い出さざるを得ません。

 「悪竜は道の辺にありて、通る者をねらう。心して、呑まるることなかれ。われらは魂の父のもとに行く。されど、悪竜のかたわらを過ぎることを避け得ず」(エルサレムの聖シリルの言葉)

 を冒頭に置いたこの短編は、両親と小さな子供2人、それと祖母の一家5人が旅の途中でたまたま出会った脱獄犯に、命乞いも虚しく惨殺される話です。

 底なしの悪の出現を防ぐ手立てを、私たちは見つけることができるのでしょうか。