講演「笑いの哲学」
「笑いの哲学」
―かつて哲学者は、芸人や奇術師のたぐいであった
茂木和行
☆早くも、このお話の結論
1、笑うたびに我々は死に、また生き返る。笑いは死と再生を同時に含む現象である。
2、笑いには、真理そのものが縮約(縮重)されている。
☆哲学は忍術?
「ソクラテス、プラトンでさえソフィストと同様に、道化師、旅芸人、奇跡術師の仲間に加えられることは免れない」(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳、中央公論社、一九七一年九月)
「小学校の同窓会でクラスメートに「いま何をしているのか」と聞かれ、「哲学をしている」と答えたところ、「そういえば君は忍術が好きだったな」と言われた」(木田元『猿飛佐助からハイデガーへ』岩波書店、二○○三年九月)
「さあ、私は自分でも解くことができないすべての問題にトリックをかけるから、よく注意してくれ給え」(プラトン『クラテュロス』409d)
☆笑いの達人?ソクラテス
さて、一人の芸人に成りきって、「笑い」を“てつがく”(哲学)してみることに致しましょう。名人・古今亭志ん生師匠(五代目1890-1973)が、あるとき東大の総長に「志ん生君、キミは哲学を知ってるね」と言われたことを回顧しています。「小学校も満足に出ていないあたしに、哲学を知っているねって、フフフ」と志ん生師匠は嬉しそうに笑いかけ「あなたのほうはうんと金がかかっているけど、こっちは一文もかけねえ哲学ですってね」と応じたそうです(江国滋「落語哲学―八つぁんの倫理・熊さんの知恵」興津要編『落語』日本の名随筆29、作品社)。この東大の総長、年代的にはおそらく第18代の大河内一男(在任1963-1968 )さんのようです。そう、「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ」と入学式で話したと言われる方です。
実際のソクラテスは、「でっ腹」で「はげ頭」、「ガチャ眼」で「大きすぎる鼻孔のしし鼻」、そしてぶ厚過ぎる唇、と、およそスマートとは縁のない、はっきりいえばむしろ豚顔に近い醜男の典型でした。ある饗宴の場で美男合戦を金持の美男子にもちかけ、「ぼくの眼は全方位、ぼくの鼻は満遍なく香りを集めることのできる優れ物」とどうどうと奇妙な論陣を張って周囲を楽しませる「おどけ」でもありました。
ソクラテスの孫弟子のアリストテレスが「笑うのは人間だけである」(アリストテレス『動物部分論』)と書き残して以来、これが笑いについての基本テーゼになっております。以来、実に多くの人たちが、「笑いとは何か」と想像・創造をたくましくきたのです。
さて、笑いとはいったい“何者“なのでしょうか?
☆いろんな人がいろんなことを「笑い」について語っています。
「よく似た二つの顔は、一つ一つはおかしくなくても、二つ並ぶと人を笑わせる」
(パスカル『パンセ』中央公論社)
「他人の欠点を笑うことは小心のしるしである」
(ホッブス『リヴァイアサン』「世界の名著28」中央公論社)
「我々の笑いは常に集団の笑いである」(ベルグソン『笑い』岩波文庫)
「人は次のような話を聞いても笑わない。
① 時期を失して(間の抜けたときに)持ち出された話。
② あまりにもしばしばくり返された話。
③ あまりにものろのろと語られた話。」
(スタンダール「笑いについてー困難な問題に関する哲学的な考察」下記パニョルの『笑いについて』の巻末付録)
「何を笑うかによって、その人の人柄がわかる」(マルセル・パニョル『笑いについて』岩波新書⇒フランスの国民的作家、1895-1974、)
「ユーモアとは、人格の根底から生じるおかしみである。…ユーモアを有している人は、人間としてどこか常識を欠いていなければならない。常識を欠かないで、尋常一般の行動をしていたならば、いつまでたってもユーモアの出てくるわけがない」(夏目漱石「文学評論」『夏目漱石全集10』岩波書店)
「お元気ですね」「俺は人を食っているからね」(吉田茂)
「芭蕉は苦しみをあるじするといっている。あるじするというのは、苦しみに圧倒されずに、ゆとりを以って眺める心である。土間に筵を敷き、枕元では馬が尿をする、蚤や虱に一晩中せめられるというふうな苦しい体験の中でも、即興的な句を吟じて、微笑をもたらしているのである」(麻生磯次『笑の研究―日本文学の洒落性と滑稽の研究』東京堂出版⇒芭蕉・西鶴・十辺舎一九の研究家)
「鶯や餅に糞する縁の先」(芭蕉)「天文を考え顔の蛙かな」(一茶)
「笑いが勇気又元気の源であり、同時に団体生活の親しみを養ふ力であるということは、不幸にして今まで、書物の上で明らかに説いた人がいなかった」
(柳田國男「笑いの本願」(「現代日本文学大系20、筑摩書房」))
「人間の愚かさは、だれかによって注意され、改められなければならないが、それは悲しみや怒りによるよりも、笑いによって注意を下されるべきではないだろうか」
(井上ひさし『パロディ志願』中央公論社)
「女性より、男性の方がユーモアという財産をもっている、と普通いわれる。女性の中にも、ユーモリストもいるが、たしかに少ない。ウイットも乏しい。なぜだろうか」
(藤本義一「女のユーモアとウイット」河合隼雄編『冗談』日本の名随筆47、作品社)
「ある人が笑うのを手伝うことにより、あなたはその人が生きるのを手伝っている」
(ロバート・ホールデン『笑いに勝る良薬なしー幸福感・ユーモア・笑いの治癒力』流通経済大学出版会⇒「笑いのクリニック」創始者)
「だれもが同じところで泣く。しかし、笑うツボは人によって違う。同じところで笑う人と一緒になりなさい」(「笑いの哲学」受講生の一人:女性)
☆笑いの理論
1、コントラスト理論(しゃれ、だじゃれ、冗談、落語のおちなどに見られるズレや意外性がもたらす笑い)
「いやあ、今日ここに伺うときに、松戸の駅の近くで、事故を目撃しましてね…とまあ、これで“自己紹介”のおそまつ」(「笑いの哲学」受講生の一人:男性)
2、優越の理論(他人の失敗などによってもたらされる笑い)
3、価値低下の理論(上司や偉人の正体がばれて「なあんだ、我々と同じだ」と感じることからもたらされる笑い。お姫さまの野糞はその典型)
(参考:J.モリオール『笑いの人間学―ユーモア社会をもとめて』(森下伸也訳、新曜社。梅原猛『闇のパトス・笑いの構造』(梅原猛著作集第一巻、集英社)白幡洋三郎「笑い、笑いの哲学、笑う哲学」(『人類の創造へー梅原猛との交点から』中央公論社)
☆笑いの分類
1、 不随意の笑い(本能的)
① 快楽の笑い
快楽充足(赤ちゃんの「ニッコリ」)
快楽予期(宝くじが当たるのではないか、と思わず「ニヤリ」、あるいは「フッフッフッ」
② ちょっとした驚き・発見の笑い
いやこれは驚いた「ハッハッハッハ」、何だそうだったのか「ハハハハハ」、あら奥さま!まあ「オホホホホ」、
「三月の甘納豆のうふふふふ」(俳人・坪内稔典『俳句のユーモア』(講談社)
2、 随意の笑い(社会的)
あいさつ「どうも御久し振りで、コホン」、軽蔑「まあ、嫌ねえ、ホントに」、冷笑「だから言ったのに、しょうがないヒト」、優越「あいつ、やっぱりやっちゃたよ、ザマアミロ」、追従「いやあ、まことにそうでゴザイマスネ」、攻撃「フン、それ見たことか」、
防御「イヤア、何とも困りましたな」
(参考:志水彰『人はなぜ笑うのかー笑いの精神生理学』(講談社))
☆もっと、笑いたい人のために
1、 南伸坊『笑う哲学』(ちくま文庫)『笑う写真』(マザーブレーン)
「見るからに哲学者らしい顔をした人はいる。しかし、顔で哲学する人は少ない。南伸坊は、その数すくない人である」(哲学者・鶴見俊輔)
2、 桂米朝編『笑い』(「日本の名随筆22」作品社)
3、 フィリップ・エラクレスetc編『笑死小辞典』(河盛好蔵訳、立風書房、1989.
<茂木和行のホホホご紹介>
1946年2月4日 母の実家である埼玉県行田市に生まれる。
都立青山高校卒。高校生の頃、手作りの天体望遠鏡(筒はボール紙でした)で、宇宙の深淵に驚異し、天文学を志しました。
東大理学部天文学科卒。毎日新聞社に入社。
宇宙の神秘以上に人間の神秘に惹かれ、新聞記者になりました。
科学系出身ということで、原子力の東海村がある水戸支局に配属されました。しかし、なぜか東京社会部で事件記者となり、捜査四課(暴力団と知能犯を扱う部署)担当となり、ロッキード事件などの取材にあたりました。当時の綽名は、「ロケット弾」(狙った的ははずさない)、「入れ込みボーイ」(出走する競馬うまが、ゲートのなかでいまにも走り出しそうに興奮して取材に出かけることから)その後、サンデー毎日記者を経て、
TBSブリタニカ入社。
ニューズウイーク日本版副編集長として国際報道に従事。史上最悪の株価大暴落が起きたブラックマンデー(1987年10月19日)を体験しました。その後なぜか、フランス系女性誌フィガロジャポン編集長として、女性のファッションやメイクとお付き合い。
あまりのオシャレぶりに「あの人だれ」などと、指をさされたことも一度や二度ではありません^^(いまは少しも面影がありませんが、ホントです^^)
JT(日本たばこ産業)の生命誌研究館(いきものに関係するミュージアム兼研究機関)入社。
いきものに関係する展示や映画製作などにあたりました。
1995年から、聖徳大学にお世話になっています。現・人文学部女性キャリア学科教授
聖徳大学総合研究所(現・言語文化研究所)所長だった井上忠先生からアリストテレスを中心としたギリシア哲学の薫陶を受けました。新聞記者もソクラテスも、「問い」が相手の心を開いていくことにおいて共通していることに気づき、ソクラテスの対話法を取り入れた講義方法を、大学の授業や聖徳大学の社会人講座SOAにおいて展開しています。
<主な著書>
『無から生まれた宇宙』(毎日新聞社)―宇宙が、何もないところから突然生まれた不思議について書きました。『ゼロの記号論』(同)―ゼロは、何もないところに無限が入り込んでいる不可思議な数である、ことについて書いています。『木から落ちた神さま』(同)―神さまは、天のどこかにいるのではなく、私たちの眼の前にいる、ということについて書きました。『アカデメイアの学堂』(夢譚書房)―私自身が、古代ギリシアにタイムスリップして、アリストテレスに直接会って話を聞くという哲学的なお話です。
<本日の講演に関係する論文>
「ソクラテス、女子学生、ハイデガー」(聖徳大学人文学部研究紀要)「ソクラテスのカフェー対話型授業への挑戦」(聖徳大学FD紀要「聖徳の教え育む技法」)「哲学はエンタテインメントになり得るか」(聖徳大学言語文化研究所『論叢』)など。
(2010年5月7日 聖徳大学10号館における講演の元原稿です)