路地歩きの序

 路地とは何だろう。辞書的定義によれば、「人家の間の狭い道路」(以下、広辞苑)となっている。「草庵式の茶室の庭園」「門内または庭上の通路」の意味もある。「露地」と書くと、「屋根などのおおいがなく、露出した地面」(―栽培)の意味になり、これには「(仏)煩悩を離れた境地。法華経の火宅輸喩に基づく」の意味もあるという。

路地のモーツァルト

 ここでは、広辞苑にしたがって、「人家の間の狭い道路」を第一定義として使わせてもらうことにしよう。感覚的には、広い表通りに対して、裏側の狭い、小さな通り、のほうが近い気がする。京都などでは小路を良く使う。路地に関する本を開いて見ると、路地裏がかなり頻繁に登場する。裏通りの裏は表通りになるはずだが、この裏の意味は、路地のさらに奥、路地のなかでも隠れて行きにくいところ、などの意味が込められているようだ。ものの本には「路地裏研究所」なるものが2013年に設立された、とある(路地裏研究所編『京都の路地裏図鑑』株式会社コトコト、2013.3)。妻・コンスタンツェが温泉療養で滞在したウイーン郊外のバーデンにて。路地裏の古物商でモーツァルト像を見つける。
 
 何にしても、路地の語感は、「広い」に対する「狭い」、「表」に対する「裏」、「明」に対する「暗」、「光」に対する「影」であろう。機能的にみれば、路地は生活空間であり、そこは「日常」の「私」の居場所である。本来なら他人の生活空間であるはずのよその土地で、わたしたちが路地に入ると一様にホッとするのは、路地そのもののもつ時間・空間が、わたしたちを日常へと連れ戻す力をもっているからなのだろう。「晴」(はれ=表向き。正式。おおやけ。公衆の前。ひとなか)に対して「褻」(け=ふだん。日常。わたくし)こそが、路地の本質にほかなるまい。

モーツァルト滞在の家
目の前の住居で、あの名作アヴェ・ヴェルム・コルプス
が作曲された(1791)。そのことを示す銘板がかかっている。
https://www.youtube.com/watch?v=6KUDs8KJc_c 
バーンスタイン指揮「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

 私たちは、心のなかにも「路地」をもっている。それは「私自身」でありながら、不思議と秘密に満ちた「時空間」である。私たちが撮った写真や映像、しゃべったり書いたりした言葉は、「心の路地」で発見した「自分自身」のさまざまな変容なのだ。

 ソクラテスは対話によって、人々の心の路地に眠る秘密を覚醒させ、自分自身との対話によって、自らを常に覚醒させることを常とした。

 これから、折々に応じて、さまざまな心象風景を、このページに残していくことにしたい。