路地考「日常性の深みへ向かって」
(前半は、「路地歩きの序」と重複しています)
路地とは何だろう。辞書的定義によれば、「人家の間の狭い道路」(以下、広辞苑)となっている。「草庵式の茶室の庭園」「門内または庭上の通路」の意味もある。「露地」と書くと、「屋根などのおおいがなく、露出した地面」(―栽培)の意味になり、これには「(仏)煩悩を離れた境地」の意味もあるという。ここでは、広辞苑にしたがって、「人家の間の狭い道路」を第一定義として使わせてもらうことにしよう。
感覚的には、広い表通りに対して、裏側の狭い、小さな通り、のほうが近い気がする。京都などでは小路を良く使う。路地に関する本を開いて見ると、路地裏がかなり頻繁に登場する。裏通りの裏は表通りになるはずだが、この裏の意味は、路地のさらに奥、路地のなかでも隠れて行きにくいところ、などの意味が込められているようだ。ものの本には「路地裏研究所」なるものが2013年に設立された、とある(路地裏研究所編『京都の路地裏図鑑』コトコト)。
何にしても、路地の語感は、「広い」に対する「狭い」、「表」に対する「裏」、「明」に対する「暗」、「光」に対する「影」であろう。機能的にみれば、路地は生活空間であり、そこは「日常」の「私」の居場所である。本来なら他人の生活空間であるはずのよその土地で、わたしたちが路地に入ると一様にホッとするのは、路地そのもののもつ時間・空間が、わたしたちを日常へと連れ戻す力をもっているからなのだろう。「晴」(はれ=表向き。正式。おおやけ。公衆の前。ひとなか)に対して「褻」(け=ふだん。日常。わたくし)こそが、路地の本質にほかなるまい。
ソクラテスは、もっぱらアテナイの市場(アゴラ)で人々をつかまえては問答を吹きかけるのを常とした。アゴラは、生活必需品をそこで手に入れるまさに生活の拠点で、人々が最も集う場所だから、そこここで人の輪が出来て、おしゃべりに花が咲いたのである。神域であるパルテノンの神殿や、政治的な集会が開かれるキュニクスの丘、あるいは裁判所などの公的な場所を除けば、アテナイは住居にはさまれた狭い路地がごちゃごちゃと曲がりくねる空間だった。
この路地を通ってソクラテスは、お呼ばれの貴人宅を訪ねたり、若者に頼まれて高名なソフィストの滞在する金持ち宅を訪問したりした。ソクラテスには奇妙な癖があり、路地などの途中で突然、沈思黙考したまま佇むことがよくあった(プラトン『饗宴』175b)。知人たちは、しばらくしたら追いついてくるだろう、とそのままにしておくのが常だったが、いったいソクラテスはその間に何を考えていたのだろうか。
私たちの心は、一つの路地である、と考えるのは楽しい。心は、日常の「私」の居場所でありながら、秘密に満ちている。心を覗きこむことは、路地を探索するのと同じワクワク感に襲われる。それは「私」の居場所でありながら、あたかも未知の路地を探索するときと同じ不思議に満ちている。路地の魅力について、多くの人が語るのを見聞きすればするほど、それは自身の「心の探索」に当てはまることがわかるだろう。
『饗宴』においてアルキビアデスが打ち明けた戦地ポテイダイアにおける風景は、ソクラテスの沈思黙考で最も印象的なものである。夏の日のある一日、朝から日の登る翌朝まで、ずっと同じ場所に立ちつづけ、思索に思いを馳せ続けたソクラテスの姿を、兵士たちが目撃、いや、いつまでそのままでいるのか、興味津々で見守っていた(同220b-d)、というほうが正しかろう。
ソクラテスがそのとき歩き回っていた「心の路地」の風景を、ある程度は推測できる。ソクラテスはポテイダイアなど戦場への三度の出征を除いて、東西が1.5キロメートルに過ぎないアテナイ城壁から外にでることはなかった。出たとしても、城壁の外を流れるイリソス川の川辺を、彼を慕う友人と対話を楽しみながら歩くぐらいだったのである。そのとき「なぜあなたは、アテナイの外にほとんど出ないのですか」と問われたソクラテスは「街の人々との対話が何よりも私の肥やしになり、出る必要がないのだ」と答えている(プラトン『パイドロス』230c-d)。
大工や左官の話ばかりする、とソクラテスは当時の筆頭知識人にあたるソフィストらに批判されていたが、彼は庶民の「日常性」のなかにこそ、物事の「大切なこと」(真理=アレーテイア)が隠されている、と信じていた。国政や行政などの大きな物事になればなるほど、真理は遠く霞んでいく。ソクラテスが、路地や戦場で、じっと佇んで瞑想にふけっているとき、彼は大工や左官らの「心の路地」に入り込み、日がな一日、対話と探索を楽しんでいたに違いないのだ。
路地という不思議空間には、「日常性の深み」が至る所で口を開けている。本日、ご都合で残念ながら出席できなかった方が
「『路地』について、象徴的な文章(勝手にさう思つてゐます)があります。向島玉の井辺りでせう。ご参考まで」
と、永井荷風の『墨東奇譚』から、次の一節を書き抜いて寄せてくれた。
「物に追われるような此心持は、折から急に吹き出した風が表通りから路地
に流れ込み、あち等こち等へ突き当たった末、小さな窓から家の中まで入
って来て、鈴のついた納簾の紐をゆする。其音につれて一しお深くなった
ように思われた。其音は風鈴売りがれん子(じ)窓の外を通る時ともちが
って、此別天地より外より決して聞かれないものであろう」
現在の墨田区東向島を中心とする玉の井は、荷風を始め太宰治、徳田秋声、檀一雄らの文人が訪れる、迷宮のように路地が入り組んだ私娼街であった。路地からの風が、鈴のついた納簾の紐をゆするその音に「別天地より外より決して聞かれないもの」と歎じた荷風の「心の深み」は、どのような世界につながっているのだろうか。
京都や鎌倉の古都の路地、東京の通称「谷根千」と呼ばれる谷中・根津・千駄木界隈、…世界に目を向ければヴェネチアの水路も一つの路地である。あるときは郷愁、あるときは神秘…路地は私たちにさまざまな世界を見せてくれる。皆さんの路地そして路地への想いをご披露ください。お互いにぶつけあって、おしゃべりを楽しみましょう。
この資料を下地として、第一回の「哲学カフェ」が行われました。どんな話が展開していったのかは、
を、お読みくだされば幸いです。