響き合いの中の橋

 読者の飛田八郎氏から、拙稿:

「情念のソクラテス」としての『ドン・ジョバンニ』

 に対し、実に貴重なコメントが寄せられた。伏して、お礼を申しあげる。
ご本人の了解のもとに、全文をそのまま掲載させていただいた。

                                飛田八郎
A 「情念のソクラテス」としての『ドン・ジョバンニ』を詠んだかね。
B 読んだ。そこにはオペラを見た。上演時間の長いオペラだ。二千四百年かそれ以上昔に開演になり、いまも続いているオペラだ。いつ終わるのか、いや、たぶんいつまでも終わることのないオペラかもしれん。出演者の数も大変なものだ。互いの歌声が響き合ってこの地上を包む。といってもそれに気付く人にとっては……だけれどね、気付かなければそんなオペラはないよ。
A わけのわからん話はやめてくれ。
B まあ順序を追っていうならば。紀元前四百年くらいとしておこうか。ソクラテスがエロスを語り、ソクラテス的自由を語った。それから二千百年後かね、モーツアルトが『ドン・ジョバンニ』を創る。むろんそれはソクラテスを意識していたわけではない。しかし、創作後百年を経ぬうちにアミエルは、『ドン・ジョバンニ』にソクラテスを、自由を、美を、光と青い大洋を聞いた。同じころキルケゴールは何を聞いたか? それを探求したのが今回の論考だろう。
A 壮大なオペラはどこにあるのかね。
B 響き合いということを考えてみよう。モーツアルトの『ドン・ジョバンニ』はソクラテスと響き合っていたのさ。モーツアルトが意識するかしないかは関係ない。エロスが用意した舞台の上で響き合っていたといえるかもしれん。もちろん優れた観客がいなければオペラは知られることもないのだが、アミエルやキルケゴールという優れた観客がいたのさ。
A アミエルもキルケゴールも観客かい?
B 取り敢えずは観客さ。ところが響き合いに引き込まれ、自らも発声し、いまはオペラの演者の側にいる。それだけではない、モギの論考に出てくるように優れた人々が観客から響き合いに引き込まれ、演者の側に立った。
A そんなら一ソクラテスの徒モギはどんな立場といえるのかね。
B もちろん最初は一観客さ。しかし、論考によってすでに発声しているのではないか。もう舞台の上に立っているのではないか。
A なるほどさように見れば確かに終わることのないオペラかもしれん。確かに壮大なオペラが地上を覆っているかもしれん。壮大なオペラが成立しているのはそれこそエロスの力によるものか。
B 一ソクラテスの徒モギは人類の思想座標、あるいは宇宙座標の中に自分の居場所をはっきり見つけたともいえる。
A それはそうだな。ただいつまでも座標上の一点に停止はすまい。
B そりゃ当人が「ソクラテスとモーツアルトをつなぐ橋キルケゴールを渡り続ける」といっている。「キルケゴール橋」と響き合いながらそこを渡っていくわけだ。響き合いの中でかつてだれも発見しなかったキルケゴールを見つけるかもしれん。あるいは「キルケゴール橋」から遠くを見たら、誰も知らなかったソクラテスやエロスを見るかもしれん。当人がワクワクするのは当然だな。洋々たる前途に乾杯!
A 乾杯! ただモギに一つだけ注文したい。タイトルに「情念のソクラテス」とあるがね、「情念」というものを思想座標上にもう少し明確に特定してほしい。もちろんモギ流の料理の仕方によってだよ。
B むちゃをいうな。
A むちゃは承知だ。ただアミエルの場合でも「アッチカ。ソクラテス・モーツアルト」と「キリスト教的・ベートーヴェン」とは別立てだ。あくまで別立てなのさ。それは「別世界なのだから別立てだ」といわれれば、それまでのような気もするけれど、ギリシャ世界からキリスト教世界を見たりキリスト教世界からギリシャ世界を見たりすれば、おもしろさは一段と増すはずだ。そこにはまた一つの響き合いが生まれるかもしれん。「情念」という語には独特の日本的な意味までこってり塗り込められているから、それとギリシャ世界やキリスト教世界で通用する情念とがどう響き合うのか? と考えてしまう。
B そのへんもモギが響き合いの中でキルケゴール橋を渡りながら、一段と鮮明にしていくことだろう。