1、「内乱の勇者に正義あり」

     ―「心の中の内乱」にどう向き合うかー

 第一巻の一~九まで。クレタ島を訪れているアテナイからの客人が、クレタの人クレイニアスとスパルタの人メギロスを相手に、クレタの法を作ったミノス(?)とスパルタの法の創始者リュクルゴス(BC700-BC630)を念頭に置きながら、法律談義を進めていきます。

 「聞くところでは、クノソスからゼウスの洞窟と神殿までの道のりは、どうしてなかなかのものだといいますし、なにしろこの息苦しい暑さですからね、おそらくは道々、高い樹々の間に、ひと休みする木陰も見つかるでしょう」と、三人はクノッソス宮殿からゼウス生誕の地とされるイデ山(プシロリテス山 Mt.Psiloritis、2456m、クレタ島で最高峰の山。左)の洞窟へと向かいます。

 アテナイからの客人は、クレタの法律は、何を基準として作られているのか、と問いかけます。これに対して、クレタのクレイニアスは、「食事のやり方にいたるまで、すべてが戦いに備えて準備されている」と答え、メギロスも「スパルタも同じであり、それ以外の基準の法はないだろう」と言います。

 アテナイの客人は、「それらの法は他国を征服するために整えられていった、ということですか」と問いかけ、「他」とは国だけでなく、同じ国の中の村から、個人、さらには、「自分に対する自分も、また敵としての他者だということですか」と畳み込んでいきます。クレイニアスは我が意を得たりと、「あなたはものの見事に議論をその根本へとさかのぼらせ、問題点をはっきりとさせてくれました。つまり、万人は万人に対して敵であり、誰もが自分自身に対して敵である、のです」と言い切ります。

 ここからアテナイの客人は、戦争に備えての法という考え方に対して、法はむしろ平和を実現するためのものであるべきではないか、と議論を転換させていきます。そこで使われているのが、ソクラテス流の「何のために存在するのか」の本質に立ち返って話を転回する手法です。

 「国の中に内乱が起きたとき、善い方の立場にたって悪を懲らしめるのがいいか、悪のほうの立場にも考慮して、和解の形で内乱を収めていくのか、どちらが好ましいか。つまり和解によって友愛と平和を作り、外敵に注意を向けるようにするほうが好ましいのではないか」と問いかけるアテナイの客人に対して、クレタの人も「そのほうを望むでしょう」と答え、議論は結局、法の本質は平和をもたらすためにある、へと向かっていくのです。

 外敵に対する勇気よりも、内乱において示される勇気ἀνδρεία(アンドレイア)のほうがはるかにすぐれていると、アテナイの客人は指摘していきます。この種の勇気は、むしろ正義δικαιοσύνη(ジカイオシュネー)と呼ばれるものであり、法の制定に際してもっとも重視しなければならないのは、正義という徳ἀρετή(アレテー)の実現である、と結論されます。戦争を法の基準とする者は、「落第立法者」の烙印を押されることになります。

 この議論は、自己の内なる悪を取り除き、善へと絶えず振り向けることが徳ある行動である、とするソクラテスの生き方に通じている、と言ってよいでしょう。皆さんは、「心の中の内乱」と、どのように向き合っているでしょうか。