1、「思い入れ」のドイツ哲学、「思いつき」のフランス哲学

 まずは、ベルグソンの哲学が、どのようにとらえられているか、あるいは、とらえられてきたか、について、本書『道徳と宗教の二源泉』の訳者(平山高次)の表現から概観しておくことにしたい。平山は「ベルクソンは、わが国に紹介された哲学者のうちで、その名に比して実の知られていない最たるものの一人であろう」(p.3)とし、彼の哲学が、ドイツ風の緻密な論理で織りなされた体系の建築を思い浮かべがちなわが国の知識人たちには、「ベルクソン哲学の一見単純で気楽そうな顔つきが」物足りなく感じ、「その柔軟な論理に含まれている厳しさがほとんど読みとれなかった」からである(同)、と断じている。
 
 平山によれば、ベルクソンの「大胆な主張の背後には、実に周到な実証的研究の裏づけがある」(p.4)が、文章表現が「論文口調のそのものずばりというような調子のものでなく、著者の心に浮かんだイメージに従って書く」(p.6)スタイルである、と「改版追記」に書いている(同)。
 
 イギリスの経験論哲学に対して、教科書的にはドイツやフランスの哲学は観念論として対比される。経験論が、感覚的な経験を出発点にして世界を語る帰納法によるのに対し、観念論は頭に浮かんだ観念を出発点にして世界を語る。ここで、フランス哲学の特徴として表題にかかげた「思いつき」とは、ある言明が“ひらめいて”、世界の成り立ちの根源が結論として見えてしまう場合を言う。「思い入れ」とは、考え抜いて達した言明が、世界の成り立ちの根源を開いてくれるとの確信を与えてくれる場合を言う。「思いつき」は直感的な世界の開示であり、「思い入れ」は世界が開示されるとの予感を含むものだと、言うことができよう。

「思いつき」の例

デカルト「我思う、故に我あり」
 「我笑う、故に我あり」では、なぜいけないのか、と揶揄される。
パスカル「人間は一本の葦である」
  だから、何なのだ。
ライプニッツ「予定調和」(世界はそうなるようになっている)
  ヴォルテールが、偶然によって人生が変わる話を書いて(『カンディード』揶揄した。
そしてベルクソン「生命の飛躍」(エラン・ヴィタル l’elan vital)

 この言葉が最初に登場した『創造的進化』の訳書(真方敬道、1979.7)では、「生命のはずみ」と訳されている。エランは「機動、飛躍、躍進」などの意味をもち、「こころがはずむ」のようにも使われるので、訳者・真方は「生命のはずみ」としたという(同書p.450)。ここでは、『道徳と宗教の二源泉』やウイキペディアの表記に従って、「生命の飛躍」を使うことにする。

 生命や宇宙の底には、持続して流れる一つの意識のようなものがあり、この意識の流れが、あるとき突然飛躍し、これまでにない新しいタイプの生命体(こころを持った人間)を生むとする巨大な「思いつき」はいずれ取り上げることになろう。

 さて。ちなみに、ドイツ風「思い入れ」の例もあげておこう。

カント「理性には限界がある」
ヘーゲル「ものみなすべて、対立の解消によって進化・変容する」(弁証法)
フッサール「人は、考える何かがなければ考えることができない」(現象論) 
ハイデガー「世界は、関心(ゾルゲ)によってつながっている」

 ドイツ哲学は、この「思い入れ」を出発点に、彼らそれぞれの哲学を構築した。原点を明示するドイツ哲学に比べると、原点不在で結論が示されているフランス哲学は、本音を言えばなじみがあるとは言えず、今回の講座は「私」にとっても一つの実験である。皆さんがベルクソンをどう「読む」か、ご教示を受けるのを楽しみにしています。