1、『天地創造』

 ミケランジェロ(1475-1564)の生きたルネサンス(文芸復興)は、古代ギリシアに範をとった「人間発見」と言うべき時代ですが、フィレンツェやミラノなどの都市国家とローマ教皇、ドイツやオーストリアにまたがる神聖ローマ帝国、さらにはフランスやスペインがその力をぶつけ合い、ときに侵攻する“戦国時代”でもありました。かの有名なシスティナ礼拝堂の天井画『天地創造』の制作をミケランジェロに命じた教皇ユリウス2世は、「軍人教皇」と呼ばれるほど交戦的で、ヨーロッパの盟主の座をめぐって、周辺国との鞘当を繰り返していたのです。

華麗なる激情 

 まずはユリウス2世との確執を描いた映画『華麗なる激情』(1965年キャロル・リード監督作品。ミケランジェロ=チャールトン・ヘストン、ユリウス2世=レックス・ハリソン。原題は The Agony and the Ecstasy=苦悩と恍惚)の冒頭をご覧になってもらいましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=_OrlzZLNk_Q

ストーリーに入る前に、ミケランジェロの彫刻作品をたっぷりと味わうことができます。巨大な石切り場は、ミケランジェロがユリウス2世の墓廟に飾る40体の石像のためにそれこそ山のような大理石を切り出したとされるカラーラを表しています(撮影が本当にそこでなされたかどうかは定かではありませんが、おそらく当時の石切り場もこんな感じだったに違いありません)
 
 フィレンツェ近くの村に生まれたミケランジェロは、それなりの家柄(本人は“貴族“階級に属していることを常に誇りに思っていました)だったためか、地元では石工の延長ぐらいにしか思われていなかった芸術家への道に進むことを、父親は反対していました。しかし、彼の絵の才能が並々ならないことを見て取った工房ドメニコ・ギルランダイヨの弟子グラナッチが、画業への道に引き入れたのです。ヴァザーリが手に入れた父親ロドヴィーコとギルランダイヨとの契約書によると、1488年13歳のとき、ミケランジェロは絵画術を学ぶことを条件に三年間徒弟として彼の工房に預けられ、父親は24フィオリーノを受け取った旨が、書かれているそうです(ヴァザーリ『芸術家列伝3』田中英道・森雅彦訳、白水ブックス、p.43)。

 ミケランジェロは、その才能をメディチ家の当主ロレンツォにも認められ、15歳のときサン・マルコ広場の庭園にある一室をあてがわれて、彫刻家育成を目指したロレンツォの意図に従って、彫刻家への道を歩みだしました。そしてすぐに、浮彫り『ケンタウロスとラピタイの闘い』や『階段の聖母』で、その腕前が周囲を圧巻するようになったのです。
1492年に庇護者のロレンツォが死に、ローマ教皇の交代、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻によるメディチ家の追放、など動乱の時代が始まり、フィレンツェは過激な修道士サボナローラによる恐怖政治が始まります。ミケランジェロは仕事を求めて、ボローニャ、ヴェネツィア、そしてボローニャと転々と居住地を変えていきます。

 ユリウス2世との出会いは、ミケランジェロが30歳のときの1505年。当初は墓碑像の制作だったものが、気まぐれなユリウス2世によって、本業ではない絵画をシスティナ礼拝堂の天井に描けとの要請を受けます。4年後に完成するまでのドラマは、映画でどうぞ。