1、わたしたちが自然の中に見出す美の形式
テーマ:「わたくしという現象」は、アインシュタインのこの方程式の、一つの、小さな、はかない、しかし、どこまでも美しい影なのでしょうか。
カントの言葉:わたしたちが自然の中に見出す美の形式
「我々は、自然における多数の所産のなかに、あたかも我々の判断力のために殊更に工夫されているかのように思われるもの、換言すれば我々の判断力に実によく適応するような種別的形式を含む所産のあり得ることを期待してよい。これらの形式は、その多様と統一とによって我々の心的能力をいわば強化し娯しませるのに役立つのである。そこで我々はこれに美的形式という名を付すのである
(カント『判断力批判(下)p.10)
★サブ・テクスト:宮沢賢治の詩「わたくしという現象」
:映像「宇宙の果てを求めて1/3―宇宙膨張と宇宙の年齢」
Λが宇宙定数。左辺第3項を宇宙項と呼び、時空が持つ斥力 (Λが正) または引力(Λが負) を表すが、通常はわずかに正(わずかな斥力)とされる。
アインシュタインが1916年に発表した最初の重力場方程式は、Λをゼロとした次の形である。
Λ項は、宇宙膨張を加速する力として働いている、と考えられつつある。
『春と修羅』 宮沢賢治
序
わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失われ)
…
「わたくしという現象」は、二百億年もの前に起きたビッグバンによって誕生した宇宙の長大な歴史の最後(最新)のヒトこまである。五十億年前に太陽系が誕生し、その第三惑星「地球」で生命は、単細胞生物から多細胞生物へと進化し、多細胞生物は複雑な器官をもつ、より多様な生物体へと進化してきた。そしてやがて、「自らの存在を知るに至った」意識をもつ人間が現れた。この何十億年という進化の営みを経て、「わたくしという現象」は、わずか百年足らずを「せわしくせわしく明滅しながら、いかにもたしかにともりつづける」存在なのである。
この宇宙の気の遠くなるような長大な歴史、それに続く生命の歴史は、「わたしという現象」を生み出すための準備期間だったのだろうか。それは、セミが地中の中で長い時間をかけて成虫への準備を進めるように、意識の外で流れ来る時間の産物なのだ。セミが、地中生活の記憶など持たないように、「わたくしという現象」もまた、自らの歴史の記憶を外の時間の流れに置いたまま、せわしくせわしく明滅しながら、やがて消えていく。
相対性理論から導かれた時空の関係を表す方程式を前にして、アインシュタインは、「美しいものは単純である、単純なものは美しい」という名言を残した。確かにこの方程式は美しい。私たちの存在のすべて、時間も空間も、もろもろの素粒子も、重力も、光も、カントの言う「自然における多数の所産」がこの単純な表現形式のもとに包含されているのである。この式を生み出したアインシュタインそのものも、この式から生まれてきた!
「考える葦である」人間は、宇宙のことを考えるだけでなく、宇宙そのものをわたしたちの日常のおしゃべりのレベルにまで大衆化している。この私たちのまわりに、目にも見えず、触ることもできないのに、そこから宇宙がまるごと出現してもおかしくないような「もの」(ヒッグス場)が、存在していることを平気で話しているのだから。
はかなく点滅するこの「わたくしという現象」は、いったい「何者」なのだろうか。それは宇宙の物語の最終主人公として、究極の「美」を体現した「何か」なのだろうか。宮沢賢治が現代に生きていたら、どのような詩を書くのか知りたいものである。