1、アリストテレスのポイエーシス

 お配りしているアリストテレスの『詩学』は、現代風に言えば詩や小説などの文学をいかに作っていくかの、一種の「文学創作論」です。プラトンの「ミメーシス」(真似)に対して、アリストテレスは「ポイエーシス」(制作)の概念を持ち出し、「創作」を神の手から人間の手へと「引き下ろした」と言っても過言ではありません。ポイエーシスの本質がもっとも現れているのは、歴史と詩の違いについて触れた次の部分でしょう。

 「歴史に比べると、詩のほうが哲学的である。なぜなら、歴史は現実にあったことを記述するだけだが、詩は有りうるであろう可能性を記述するからである」
 
 これは、事実界を記述するジャーナリズムと哲学の違いについて、そのままあてはまります。哲学は事実を記述するのではなく、事実の底に広がる多様な可能性を提示するものです。事実は、ひとつの原因からひとつの結果が生まれる因果律に従っています。哲学的思考は、ひとつの原因が多様な世界を生む力を内在していることを示唆します。

 アリストテレスの重要な概念に「可能態」(デュナミス)と「現実態」(エネルゲイア)があります。それは、親と子、成熟した植物と種、はどちらが先か、というわたしたちの誰もが抱く素朴な疑問から発したものです。赤ん坊が親になるのですから、子供時代はその人にとって先であり、種(たね)が育って一人前の植物になることを踏まえると、種がなければ植物にはなりません。

 しかし、親がなければ子はできず、成熟した植物になってそこから種が生じます。赤ん坊や種は、一人前に育つ可能性をもっている存在であり、これをアリストテレスは「可能態」と名づけ、人なら人、植物なら植物の有り様を備えた一人前の状態を「現実態」と呼んだのです。アリストテレスは「どちらが先」の議論を、「成人には種(スペルマ)があるが、種には成人が(現実のものとしては)ない」(アリストテレス『形而上学』1050a1)などの言い方で、大人が子供よりも先、すなわち、現実にその存在の属性をもった状態(現実態)が、その可能性を秘めた状態(可能態)よりも先であることを論証していきました。

 現実態は、変容する存在の最終形態(ゴール)であり、表現「人間は人間から(生まれる)」(同『形而上学』1049b20)に集約されています。
 
 ポイエーシスは、存在のゴールを形成するひとつの力であり、それがが「天上の神」にあるとしたのがプラトン、人間を含めた自然のなかにあると考えたのがアリストテレスです。