1、ノーベル賞になぜ「技術賞」がないのか

 先だって、ノーベル賞を受賞した大村智博士の地元・韮崎駅で降りたところ、駅前の市民会館で、受賞メダル(レプリカ)が展示されていました。表面に彫られているアルフレッド・ノーベルの横顔を見ているうちに、「なぜ、ノーベル賞に技術賞がないのだろうか」と、普段から感じている疑問が頭をもたげてきました。

 日本語ではよく、「科学技術」とひとくくりで表現しがちですが、「科学」と「技術」はもともとまったく違う意味内容をもつ言葉です。「科学=サイエンス(science)」は、ラテン語の「scire(知る)」から来ており、「sci(知る)」+「~ence ~すること」で、原意は「知ること=知識」です。これに対して、ギリシア語の「テクネー」を語源とする「技術=technology)」は、単純化すれば「技」を意味し、工業的な技術だけでなく、芸術や学問、体育さらに政治などあらゆる分野にあてはまる「術」の総意と言えます。

 フランスの社会文化人類学者のアンドレ・ルロワ=グーランは『身ぶりと言葉』(荒き亨訳、新潮社)の中で、人類は歴史的に「知識」を「技術」の上位に位置づける階層構造を固定化してきた、と、次のような興味深い事実を指摘しています。

 「(職人の位置は)司祭の<神聖>、戦士の<英雄主義>、狩猟者の<勇気>、弁論家の<権威>、田園の仕事にすらある<高貴>に較べて、その営為はただ<たくみな>だけである。…<知識人>と<技術屋>とのあいだで今なお行われている差別の源には、技術的行為と言語活動、最も現実的な現実に結びついている作品と表象(シンボル)に基づく作品とのあいだで、人類が打ち樹てた階層構造がある」(p.176)

 「発明の神格化が技術崇拝を生み出している今日でも、なおロケットで飛行する軍人が英雄視されるのにたいし、それを考えついた技師は人間科学の偉大な召使い、一つの手に過ぎない」(p.176)。

 技術は「作品=物作り」に属する世界にあり、科学は「表象=考えられたこと」に属し、考えることのほうが作ることよりも上位の行為である、という常識を、人類がいつのまにか固定化してきたことを示しています。「科学」(考える)と「技術」(作る)、の関係は、「頭」と「手」との関係につながっており、ルロワの考えは、科学者は考える人であり、技術者は作る人に属するとするものです。

 さて、珪藻土にニトログリセリンを浸み込ませた爆薬ダイナマイトの開発は、科学的成果なのか技術的成果なのか、どうなのでしょう。アインシュタインが「思考実験」から見出すにいたった相対性理論は、まさしく「考えること」だけの成果です。しかし、その理論的結論である重力波の発見は、レーザー干渉計により時空の極めて微細なゆがみを見出したもので、緻密な技術の発達による大きな成果でした。とはいえ、そこに「思考」が介在していない、とは言えません。

 果たして技術は「手」だけに宿るものなのか、皆さんの技術観やルロワの考え方への批判、などを話してもらい、スタートといたしましょう。次回は、プラトンのミメーシス(真似)を手がかりに、狂言師・野村萬歳の「振り」と「型」の関係を見ていきます。