1、三頭の馬に曳かせた、橙色の堂々たる馬車で、…

                 (『旅の日のモーツァルト』pp.7-20)

 モーツァルト夫妻がウイーンを発ってプラハに向かったのは、1787年10月1日だった。残念ながら、二人がどのような出で立ちで、どのような馬車に乗って旅立ったのか、その記録はない。まして、旅の途中でいかなる出来事があったのか、などに関する情報もなく、『旅の日のモーツァルト』はメーリケの想像上の話である。
 このころのモーツァルトがどのような感覚のもとに生活をしていたのかについて、史実と照らし合わせてみよう。冒頭には、モーツァルトが自然が大好きであることから、社交好きでパーティーに興じ、たくさんのピアノ生徒を抱えながら、家計はかなり大変で、コンスタンツェが苦労していること、などが描かれている。父・レオポルトに比べると、モーツァルトの手紙には、自然に対する記述がほとんどないことは、よく指摘されることである。唯一残されているのは、ある伯爵からウイーン郊外の邸宅に招待されたとき、「(ここの主人が)森の中に、まるで自然にできたような洞窟を作ったのです!ここの環境は実に豪華で、とても愉快です。…」と父に書き送っている手紙(1781年7月13日)ぐらいだろうか。
 ただ、コンスタンツェの回想によれば、モーツァルトは「ザルツブルクの絵のように美しい景観がとても好きでした。…田舎がことのほか好きで、自然のなかの美しいものはなんでも熱烈に愛していました。-ちょっとした遠足が好きで、たいてい郊外で過ごしていました」(1829年)というから、森の中のシーンは、自然に対するモーツァルトの愛好が素直に画かれている、と言えるかもしれない。
 1783年にフランスのモンゴルフィエ兄弟がパリで、空気を暖めて浮かぶ熱気球を初めて飛ばし、翌1784年の11月21日には、人2人を乗せて高度1キロで25分間、12キロの有人浮揚飛行に成功している。1785年にはブランシャールが気球でドーヴァー海峡を横断し、ザルツブルクでもこの話題で持ちきりになった。モーツァルトは、バーデンに保養中のコンスタンツェにあてて「ブランシャールの話題は、きょうはまったく迷惑だ。-仕事の妨げだからだ」(1791.7.6)と書いている。モーツァルトを尋ねるはずの人が、気球に夢中で約束をすっぽかしたらしい。
 気球操縦家のブランシャールは、この7月6日にプラーター公園からモンゴルフィエ気球で飛び上がり、ウイーン近郊に着地したが、それまでに2回失敗していた。翌7月7日の妻あて手紙では「気球は見に行かなかった。だって、あんなのぼくにはこの通りちゃんと想像できるからね。それに今度も何の成果もあげないだろうとみていた。-でも、いまウイーン人たちは大喜びだ。-これまで悪しざまに非難していただけに、いまでは誉めそやしている」と報告している。

★文中に出てくるスペインの作曲家になる当時のはやりオペラ「コーザ・ラーラ」(p.19。「フィガロの結婚」がかなり食われたという)は、『ドン・ジョヴァンニ』のなかの、石像が現れる第二幕の核心シーンで、宴会の曲として使われています。

モーツァルト夫妻の実際のプラハ行を復習しておきます。

第一次プラハ行
 オペラ『フィガロの結婚』が大当たり(前年の1786年12月)したことから、興行師ボンディーニから招待を受ける。
1787.1.8   ウイーン発
  1.11  プラハ着
  2.8   プラハ出立
  2.12  ウイーン帰着
 
 (父・レオポルトの死     1787.5.28)

第二次プラハ行 
 皇帝ヨーゼフ2世の姪マリア・テレジア大公妃が、婚儀記念(相手はザクセン候アントン・クレメンス)でのプラハ立ち寄りを祝賀するため、ボンディーニが依頼したオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の上演(曲は、作曲継続中)で。
1787.10.1   ウイーン発
 10.4   プラハ着
  10.14   準備が間に合わず大公妃の臨席には『フィガロの結婚』を自らの指揮で上演。
10.29   自身の指揮で『罰せられた放蕩者、またの名、ドン・ジョヴァンニ』を上演(『プラハ中央郵便局時報』には『ドン・ジョヴァンニ、またの名、石の賓客』となっている)
11.13頃  プラハ出立
11.16頃  ウイーン帰着

 ちなみに、『ドン・ジョヴァンニ』の作曲料は450フローリン。これは、『フィガロの結婚』のときと同じです。この金額は、ザルツブルクの父・レオポルトがもらっていた年収と同じ額で、現代の450万円と考えたらよいと思います。