1、不正義ほど理解できるものはない

 センが『正義のアイデア』序文で引用しているディケンズの『大いなる遺産』の箇所は、ふとしたきっかけで人生に退屈した夫人の相手をさせられることになった労働者階級の主人公ピップが、世話役の同じような年頃の少女から、犬のように食べ物を地面に投げ捨てられるという扱いを受け、人生の不条理を感じて涙するシーンに登場します。
 センの本では「不正義」と訳されているinjusticeが、『大いなる遺産』の三つの翻訳本のすべてが当該箇所に異なった日本語をあてていることはなかなか興味深いこととしてまずは紹介しておきましょう。

 不公正(山本政喜訳、角川文庫)
 不正(山西英一訳、新潮文庫)
 不公平(佐々木徹訳、河出文庫)

 日本語の語彙からすると、「不公正」「不正」「不公平」は、随分とニュアンスが異なります。単純化すると

 不公正:なにかおかしい、変
 不正:インチキ
 不公平:なんで私だけが…

 という感じになるでしょうか。英語の injustice は、言ってみればこれだけのニュアンスを包含した言葉になることになります。その意味では「不正義」と訳すのが、もっともふさわしいのかもしれません。

 さて、私たちは日常的にさまざまなことに対して、「不正義」という言葉では大袈裟かもしれないけれど、「何かおかしい」「どこか変」という体験をいろいろとしているのではないでしょうか。今回は、次のような体験談から始めました。

 エスカレーターで右の道をふさいでいた中高年の人に「ちょっと空けてくれませんか」と声をかけたところ、「何でこんなところで急がなければならないのだ」と強く叱責されたことがあります。エスカレーで右の通路を空けるのは習慣的なマナーに過ぎませんから、根拠を問われると答えに詰まってしまいます。いわば、あわてふためいてエスカレーターを駆け上がる人生に、その人は「もっとゆっくり過ごせ」と忠告してくれているわけです。

 実際「エスカレーターを駆け上がるのは危険だから、しないで欲しい、というのが設置者の要望です」「関西では、左を空けるのがマナーになっているので、関東式を主張したら、正しくないことになりますね」といった声が受講生から出てきました。

 駅の階段で進行方向を示す矢印を無視して逆行する人、シルバーシートで席を譲らない若者、携帯のメールをしながら道をふさぐ者、などなど、いろいろのケースがあげられました。

 「正義と道徳は違うことを、アリストテレスは『二コマコス倫理学』の中で言っています。正しい、正しくないを語るときには、この違いをきちんと意識しなければならないのではないか」
 という指摘も出てきました。

 英語の jusutice injustice は、ある意味ではとても便利な言葉です。モラルやマナー、エチケット、ルールにかなう行動から、生き方の正しさまで、すべてが含まれています。それらをすべて含んだ「正義」(不正義)とは、いかなる”こと”なのでしょうか。その正体の解明に向けて、これから少しずつ歩みを進めて行きたいと思います。

1、不正義ほど理解できるものはない

 「『子供たちが生きている小さな世界の中で、不正義(injustice)ほどはっきりと理解でき、感じ取れるものはない』とチャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』に登場するピップは言う。私は、ピップは正しいと思う」(『正義のアイデア』序文 p.1)。
 
何が正義か、正義とは何か、は、まさにソクラテスがプラトンの『国家』(藤沢令夫訳、岩波文庫、pp.24-31)において立てた問いであり、いまだに答えがありそうで現実には見つからない問いである。そのソクラテスは有名な「悪法も法である」の言葉を残し、正しくない法も、法として共同体の規則である以上、それは守らなければならないと、毒盃をあおいで死んだ。彼の行為は、正義に適っているのだろうか。現代の我々からすれば、どう考えても、彼は不条理のもとで死んだとしか思えない。古代ギリシアの世界においてさえ、ソクラテスの死刑を知った子供たちは、それをはっきりと「不正義だ」と感じたのではないだろうか。
 現実の私たちの世界も、不条理(absurd:こんなのおかしいよ、やってられない、の感覚)に満ちている。不条理は、不正義ではないかもしれない。しかし、それは、理屈に合わないことであり、その不条理を身に受けるものたちにとってみれば、正しくないことが起きているが故に、不正義と実質的に等しいのではないだろうか。ディケンズの『大いなる遺産』にならって、第一回目は日常生活のなかで、体験し、見聞きしているさまざまな不条理、不正義を机上に乗せて、現実社会の問題点を抉り出してみたい。
[注]: injusticeは、justiceに、ラテン語系の接頭辞in(無、不)がついた言葉で、不正義、不公正、不公平など、訳者によってさまざまに訳されている。原語の意味を正確にとらえるならば、「正義不在」ないし「正義の無い状態」、と言うのが近い。
 justiceはjust(公正な、公平な、正しい)+ice(行為、状態、性質)
 justはjustus(ラテン語)より。⇔ unjust, unfair