1、病死・過労死・水銀中毒…それともー

                      マルクス墓地のモーツァルトの墓

マルクス墓地のモーツァルトの墓

 誰が数えたのか、モーツァルトの死因には150もの説があるそうです。事故(落馬による頭蓋骨骨折)、不慮の自殺(性病の治療として摂取する水銀の量)などなど、とても検証不能なほどですね。さて、みなさんはどう考えますか。

 有名なサリエリによる毒殺説や、小貴族ホーフデメールによる嫉妬撲殺説、そしてフリーメーソンによる謀殺説については、2回目、4回目、6回目にそれぞれ時間を割いてお話します。まずは初回、死の床に居合わせた関係者の証言と、治療にあたった医師や診断書を再考した医師らの話から、病気による死が妥当かどうか、病死ならばいかなる病によるものだったのか、について検証していくことにいたしましょう。

聖マルクス墓地
ウイーン郊外の聖マルクス墓地

★姉・ナンネルの自筆の手紙
 モーツァルトが亡くなったのは、12月5日月曜日、真夜中過ぎの零時55分。

★コンスタンツェの二番目の夫、ニッセンのメモ
 彼が病臥した死の病は、15日間続いた。病気はまず両手と両足に腫瘍を来たし、ほとんど両手両足が動かせなくなることから始まった。これにはその後突然嘔吐が続いたので、この病気を人々は急性粟粒(ぞくりゅう)疹熱と呼んだ。彼は、死去する2時間前まで、完全に意識があった。

 (注)急性粟粒(ぞくりゅう)疹熱:皮膚に発疹(粟粒疹)を伴う伝染病に一種。しかし、粟粒疹はリューマチ性体質によく見られる随伴症状で、当時の医師が原因不明の病気にこの病名を与えるふしがあったようである。

★ウイーン市死亡台帳
 貴人、モーツァルト氏。ヴォルフガング・アマーデウス、皇王室音楽家および宮廷作曲家、ザルツブルクに生まれ、ラウエンシュタット小路970番地の小<カイザーハウス。に住み、急性粟粒疹熱により死亡、[遺体]検視済、36歳
 (注:ただしくは35歳)

★義妹ゾフィー・ハイベルの証言(1825.4.7)
(12月4日)
 「ああ、ゾフィー、来てくれてほんとうにうれしいよ。今夜はここに居て、ぼくが死ぬのを見なくちゃいけないよ」。私は懸命に勇気を奮って、そんなことはないと説得しました。けれども、私が何と言おうと、彼はこう答えるばかりでした。

 「いや。ぼくはもう死の味を舌に感じているんだよ。もし君が居てくれなれば、ぼくが死ぬとき、愛するコンスタンツェを誰が助けてくれよう…」。…私はできるだけ早く、取り乱している姉の許へ取って返しました。ジュースマイヤーがモーツァルトのベッドの傍らにいました。よく知られた『レクイエム』が掛けぶとんの上に乗せられ、モーツァルトは彼に、自分が死んだら、どのように考えて完成すべきなのかを説明していました。

 …ずいぶん長いことクロセット博士を捜して、劇場で見つかったのですが、芝居がはねるまで待たなければなりませんでした。彼はやって来ると、モーツァルトの燃えるような額に冷たい湿布を乗せるように言いましたが、熱はたいそうひどかったので、意識不明になってしまい、死ぬまでその状態が続きました。モーツァルトは最後に、『レクイエム』の中の太鼓の一節を、口で言い表そうとする仕草をしました。今でもまだそれが聞こえてくるようです。

★医師グルデナー(ヴィーン大学医学部教授。モーツァルトの主治医クロセット博士の知人医師)の鑑定書(1824.6.10)
 :急性粟粒(ぞくりゅう)疹熱の名前は使わず、リューマチ性炎症熱としている。この鑑定書の特徴は、当時、巷に流れていた毒殺説を明確に否定したことにある。

 彼(モーツァルト)がリューマチ性炎症熱に冒されましたのは、秋もかなり深まった頃のことでありました。この病気はその頃、私どものあいだでひろく蔓延しており、多くの人たちを襲っておりました。私がモーツァルトの発病を耳にいたしましたのは、彼の症状がすでにかなり悪化していた二、三日後のことでした。私はさることを顧慮いたしまして彼を訪問いたしませんでしたが、その病状につきましては、ほとんど毎日顔をあわせておりましたクロセット博士から聞きおよんでおりました。この人は、モーツァルトの病気を危険なものと所見し、最初から悪い結末、つまり脳の発症を恐れていたのであります。
 
 ある日、彼はザラーバ博士に逢い、モーツァルトは回復の見込みはなく、脳の発症を抑えることはもうできない、と明言いたしました。ザラーバはこの初見をただちに私に伝えましたが、事実、モーツァルトはそれから二、三日立って、通例の症状である脳の発症によって死去したのであります。彼の死は人々の関心を呼びおこしはいたしましたが、たとえわずかであっても毒殺の疑いを心に抱くものはおりませんでした。才知があり、経験を積んだクロセットは、彼を良心的な医師の持つ細心さと、長年の友人としての関心をもって治療いたしましたため、もし毒殺の些細な痕跡でも認められたとすれば、それをクロセットが見のがすようなことはけっしてなかったでありましょう。

 …クロセットは病気を正しく観察し、認識しておりましたため、いつ最後を迎えるかをほとんどぴたりと予言していたほどでありました。この病気は同じ頃ヴィーンの住民多数をも襲い、彼らの間の少なからぬ人たちにとってはモーツァルト同様その終わりは死であり、かつ同じ症状でありました。屍体の精密検査の結果、何らの異常も認められませんでした。

 (注:ザラーバは、クロセット博士の指導を受けた医師で、モーツァルト家の面倒を見たもう一人の医師)

★カール・ベーア博士の総合的所見と結論
 同博士は、モーツァルトの病歴を追いながら、過去の医学的所見を精査し、1966年に『モーツァルトの死』を出版(海老沢敏・小林一夫訳、音楽の友社、昭和50年11月)。モーツァルトの死が、医師グルデナーの所見通り、リューマチ性熱病によるものだとし、それは連鎖状球菌属の細菌によってひき起こされるとの医学的知見を付加、さらにおおむね次のような見解を同書で表明している。

 父・レオポルト・モーツァルトの手紙から判断すると、モーツァルトは少年時代に3度リューマチ性熱病に襲われたと考えられる。1回目はウイーンに旅行した7歳のとき(1762年)、2回目はウイーンからザルツブルクに帰った直後、そして3回目は11歳になる寸前、ミュンヘンに旅行中のときである。発病したのは、いずれもリューマチ性の病気が起こりやすい晩秋の数か月で、これは、彼を死へと導いた1791年、体調不良を訴え始めたのも同じ晩秋だった。季節の変わり目の湿気があって寒い気候が、リューマチ性の流行病をうながし、とくに低気圧の活動と関係がある、とし、低気圧の通過と温度変化で誘発される、との見方を披露。当時のウイーン気象台の記録から、モーツァルトの体調の変化と死が、ウイーンの気圧と温度変化と一致する、としている。
 こうした一連の客観的事実を踏まえ、カール・ベーアは次のように結論している。

 リューウマチ性熱病が、現在、貧困のあいだでは、中産階級よりも30倍の頻度で発生し、この頻度は貧困と不十分、または適切でない食物および不十分な住宅事情に正比例していることを考慮すれば、今日に比べるとはるかに不満足な生活条件の18世紀にあっては、この病気の蔓延がいちじるしく、かつ悪性であったことは想像するに難くない。

 これらの論証のすべてを総括すると、私たちが今日観察するかぎり、中年に足を踏み入れ、精神的、衛生的、さらに栄養生理学的にも不利な条件のもとで生活していたモーツァルトが、あらためてリューマチ性熱病に襲われたのはおよそありうることであろうし、おそらく間違いなかったものと認めるほかなさそうである。
 
 時代背景を考慮したベーア博士の所見は、それなりに説得力があるように見えますが、さてどうでしょうか。もっとも新しい説は、1984年に『ミュージカル・タイムズ』(The Musical Times:イギリスで発行されているクラシック音楽についての学術雑誌)に掲載されたオーストラリアの内科・消化器科医ピーター・ディヴィーズ博士によるもののようです。彼によると、モーツァルトは、

連鎖状球菌性伝染病―シェーンライン・ヘノッホ[紫斑病]症候群―腎不全―瀉血―大脳の出血―気管支炎性肺炎

という過程を経て、亡くなったのだと言います。素人にはよくわからない病名もあったりして、この通りだとしたら、モーツァルトは死ぬまでに随分と大変な思いをしたことになりますね。

 ディヴィーズ報告の詳細を知りたい方は、ロビンズ・ランドン『モーツァルト最後の年』(海老澤敏訳、中央公論社、2001年2月、pp.268-273)を参照ください。
 もっと、詳しく知りたい方は、そのディヴィーズがまとめた著書『人間モーツァルトー天才の病理学』(川端博訳、JICC(ジック)出版局、1992年5月)をご覧ください。

 次回は、いよいよサリエリによる毒殺説に迫ります。