1、脱脳
コロナ禍になってから、運動不足を補うために早朝ランニングを始めました。ゆっくり、のんびり走っていると、いろいろなことが頭をよぎります。熱中症で倒れた後、認知症がひどくなり、介護老人保健施設に入れざるを得なかった96歳の母、いまごろ何をしているのだろうか。明日から始まるSOAで、どのように話を展開しようか。コロナのために中止になったオペラの補填として、東京都や国の助成金を活用して応募している新しい試みの結果はいつ出るだろうか。
こんなことが次々と頭をよぎって、つい、つい、走る足元がおぼつかなくなります。遠くの信号が青から赤に変わるのが見えます。それは、環境8号線の交差点信号で、渡ると、結構広々とした「井草の森公園」へと歩を進めます。いったん赤になるとなかなか青に変わらないその交差点に、ちょうど青に変わるころに着くためには、スピードをアップしなければ、と、走りのギアをあげます。
途端に思索の流れが中断し、考える行為がストップします。気になっているのは目の前の信号だけ。ただひたすら信号と、周りの景色、通過する車の様子だけが目に入ってきます。あ、信号が青に変わった。まだ、交差点まで20m、スピードをさらにアップすると、感じるのは激しい息遣いと、心臓の鼓動だけ。周囲の景色は、ぼやけた状態で後ろに流れていきます。
よし、交差点に入った。青い信号が点滅を始める。さらに両足を回転させてスピードをアップ。交差点を越えて、目の前に「井草の森公園」の入り口が現れる。減速しつつ、公園の中に入ると、右手の池を泳ぐコイが目に入ってくる。少し先の広場で、早朝体操に訪れているたくさんの人たち。ラジオ体操の曲が聞こえる。
ハアハア言いながら、ゆっくりと公園を一周する。ところで、いままで何を考えていたのだろう。明日の講座のことを思い浮かべると、「哲学は難しい」「哲学って、何の役に立つのだろう」といった声が聞こえてきます。
必ず聞かれる「哲学の効用」への私流のさまざまな答え。「哲学していると時間を忘れる」「哲学すると暇になる」「哲学すると煩悩から解放される」。えっ、それは本当かなあ。「哲学すると、つまらないことにこだわらなくなる」。うーん、それは、多分、本当。「哲学すると、すべてが光り輝いて見える」。そうなりたいものです。
哲学の究極の境地は? ソクラテス的な言辞「人間は肉体という牢獄に閉じ込められている。そこから解放するのが哲学だが、死なないことにはこの牢獄からは解放されない」。それは「バカは死ななきゃ、直らない」と同じことなのでは。では、哲学する人は「バカ」か。そうかもしれない。日がな一日、愚にもつかないことで、時間を費やしているのだから。
とまあ、こんな連想ゲームをしているうちに、本日のお題「脱脳」にたどりつかないまま時間切れ。今回、言いたいことはただ一つ。走って、何も考えられないときは、「動物している」時ではないか、そのとき一種の「無」の状態にあり、動物はいつも「無の状態にある」から、これって、哲学の求める究極、「悟り」と等しい、ああ、もう頁切れ、です。