1、西田幾多郎 「道徳維持者としての神」説への反論

2013年1月8日

 新年初日のこの日の講座は、「みなさん、年末年始はどのような愛知をしていましたか」と問いかけることで始まりました。言うまでもなくこれは、ソクラテスが出征してアテナイの街に帰ってくると、必ず市民の人たちに問いかけたことをもじったものです。
 「フィロソフィー」(哲学)は、ギリシア語の「フィロ(愛)ソフィア「知」)からきたもので、元意からすれば「知を愛すること」(愛知)の意味になるのです。

 私は、受講生の一人からいただいた年賀状を紹介しました。写真家の石川直樹さんが、ボリビアの高地を訪れて、小さな土塊の家に泊まったときのことを、
「宇宙の下で哲学す」
のタイトルで絵葉書にしたものです。その内容は「てつがく」問答にも紹介していますが、ここに採録すると次のようなものです。

宇宙の下で哲学す

平均海抜4000メートル。写真家は、スペイン語で「高く、平らな土地」を意味するアルティプラーノに立った。こんにちは! ……彼の挨拶に、荒野は無言で応える。ふと空を見上げると、青がどこまでも深い。天はすぐそこなのかもしれない。陽が落ち、あたりが暗くなってきたので、一晩だけ借りた家に転がり込む。たった一間の簡素な住宅。中にはちいさな暖炉があるだけ。土塊でできた、ボリビアのヴァナキュラー建築だ。どこからかおばちゃんがやってきて、豆のごはんを置いていった。なんとか空腹を満たす。野生のアルパカ、元気に生きてたなぁ。目は冷めてたけど。ま、愛想ふりまく必要なんてないしな、やつらは。しかし、なんでこんなところまで来ちゃったんだろう、俺……。宇宙の真下は、写真家が哲学するのにうってつけの場所らしい。 

 大空の下にポツンポツンとキノコが生えているようなボリビア高地のこの家は、芝土を乾燥させた「ソッド」と呼ばれる素材で出来ているそうです。「宇宙の下で哲学する」 人が、どのような写真を撮っているか、石川さんのホームページも紹介しました。

http://www.straightree.com/ 

 受講生の方々は、それぞれに正月の過ごし方を話してくれましたが、驚いたのはかなりの方々が、本当に「愛知」をして過ごしたことです。
 「この講座で、どなたかが心身二元論の話をしてくれましたが、私は心と身とが一体となっているほうが性に合っているようだと思うに至りました。メルロ・ポンティの現象学の本を読んでみました。この講座でも取り上げてくれると嬉しいです」
 「私が哲学の講座を受講していると友人に話をしたら、その男が実は哲学好きで、O.S.ウォーコップの『ものの考え方ー合理性への逸脱』を読めと薦められました。読んではみたものの、どうにもよくわからない。繰り返しが多いし…」
 「高村薫の『太陽を曳く馬』という小説がありましてね。これは…」
 ちなみにこの小説は「人はなぜ描き、なぜ殺すのか」という不思議な解説がついている小説です。
 「人は、精神的な生活にあこがれて、新興宗教に入るのではないか。『大本襲撃ー出口すみとその時代』という大本教についての本を読みまして…」
 「お借りした『青空哲学』を読んで、大変感激しました。…」
 この水上勉と玉村豊男の対談『青空哲学ー信州水玉問答』は、同郷の別の受講生の方が、是非にと奨めたものです。
 いや、とにかく凄いですね。「愛知」を問いかけたこちらが恥ずかしくなるほどでした。このホームページから、拙論考「哲学はエンターテインメントになり得るか」をわざわざ読んでくれた方がいて「哲学は動詞であることがわかりました」と、素晴らしいコメント、私を含めた講座の一同、思わず感に入りました。

 今回のテーマが、神に関することでしたので、「神が万能ならばなぜ悪が存在するのか」という歴史的とも言える問いかけに、ひとりが「神はじつはとてもいじわるなのです」と応じるなど、神とは何かをめぐって意見が交錯しました。
 印象的だったのは、おひとりが紹介してくれた仏教僧の言葉とです。真言宗の納棺式に出た際、焼香の意味が「身口意」だと知った、というのです。
 身  身体を清める
 口  言葉を清める 
 意  気持ちを清める
ことによって、神と交信する、その結果、
「自分自身をリセットするためのものなのかな、と思っています」
 
 みなさん、本当に生活のなかで「てつがく」しているのですね。当初にたてた下の問い、この講座は「神見の場」たり得るか、は、たり得ているような気がしてきました。

問い:この哲学講座は、西田流「純粋経験の場」であると考えることができるだろうか。もしそうならば、「見神の場」たり得るのだが。

テクスト: 西田幾多郎  カントの「道徳維持者としての神」説への反論
(『善の研究』岩波文庫、pp.121-126)

「古来神の存在を証明するに種々の議論がある。…そのほか全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいうところに由れば、我々人間には道徳的要求なるものがある、即ち良心なる者がある、然るにもしこの宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かったならば、我々の道徳は無意義なものになる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬというのである。カントの如きはこの種の論者である。しかしこれらの議論は果たして真の神の存在を証明し得るだろうか。…全知全能の神なるものがあって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。此の如き考は単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神その者を自己の直接経験において直にこれを証明したのではない」(『善の研究』pp.121-123)

サブ・テクスト:ヤコブ・ベーメ『無底と根底』(四日谷敬子訳、哲学書房)

<解題>

 西田幾多郎は、神を彼の基本概念である「純粋経験」の延長線上でとらえようとしている。彼の言う「経験」とは、「そのままに知る」ことを意味する。さらに「純粋」をつけたのは、私たちが経験でつかんだと思っていることは、実は過去の体験や思考がその底にある場合がほとんどである。そうしたものを交えず、色を見たり、音を聞いたりしているときに、「これは何色」「これは何の音」と言った判断も加わらない、その瞬間、瞬間の状態を「純粋経験」というのである。
 西田は、純粋経験の場そのものに、無限なる実在を統一する力が潜んでおり、宇宙の真理を我々は知ることができると考えた。神は、カントの言うような「外界からもたらされる」ものではなく、内なる自己に潜む力によって捉えられる「実在統一の根本」である。その本質は「無限」であって「無」である、と西田は考える。一幅の名画からその全体として霊気人を襲う者があるのを見るとき、そこに我々はなぜそうなのかの理由を見出すことが出来ない。これを、純粋経験が導く「見神の事実」(ヤコブ・ベーメ1575-1624 の言う「翻された眼」)、と西田は呼ぶ。我々自身の精神が無限であり、個人的自己の統一で満足するものではない。我々の大なる自己は他人と自己とを包含したものであり、他愛として超個人的な統一の要求を起こす。「故に、我々は他愛において、自愛よりも一層大なる平安と喜悦とを感じる。神は、実にこうした統一的活動の根本であり、我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である」。