1の談論 ―至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり

 トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』におけるロビンソン・クルーソーにとっては、他者は「灯台のように」私たちを導いてくれる存在でした。孤島において彼らを失ったときは「暗闇に投げ出された」のと同じ一種の絶望観にさいなまれるのです。そこから生まれたのが、「島そのもの」、あえていえば人間を除去した「多様な物」の全体、を他者として、それとの対話を試みるようになるのでした。彼は、最終的に「島の一部」として生きる道を選びました。島の一部といっても部分になるのではありません。川の流れの一滴の水のように、やがて大海へと至り、蒸発して雲となり、雨となって再び川へと流れ下る、そのような状態がおそらくロビンソンが達した境地なのではないでしょうか。

 現代において、私たちは「人間という他者」と「物という他者」の双方と暮らしています。人間という他者は、私たちが哲学者であろうとなかろうと、ハイデガー的に言えば、「平均化」によって彼らの中に埋もれるように働きかけています。埋もれるということは、自らの実存性を喪失し、「頽落」の状態に落ち込むことでした。そこからはい出るために、私たちはもがいている、と言えないこともありません。一方、物との関係は、ロビンソンが最初に物の全体としての島を「管理下」に置いたように、私たちは「物」を管理下に置き、物を自分の思う通りに動かしているつもりになっているのではないでしょうか。人間の他者が、私たちの本質を隠すように働いているとしたら、物という他者は逆に私たちのある種の奴隷として言いなりになる便利な道具以外の何ものでもなくなっています。ハイデガーが指摘しているように、現代の私たちは「物の声」を聞かず、「物」に私たちの声を無理強いしている、と言えるのではありませんか。

 物とどのように接しているのか、さまざまな声が寄せられました。画家の受講生は、哲学カフェで取り上げられた亀田製菓の「けなげ組」の話
哲学カフェ 第二回の談論「けなげ組のつぶやき」参照
に、画家としての自分の体験を重ねてくれました。
 油絵の具の強い香りに悩む家族に配慮して、アクリルに変えたところ、油絵と同じようにアクリル顔料を使いこなせるまでに10年はかかったというのです。物には物の言い分があり、その声を聞くことが肝要になる、とのお話は、料理の世界で「使う素材の声に聴け」に通じるものだと思います。

 ある受講生は、フロイトやアドラーなど、精神分析の世界では、「ウンコは、生まれ落ちた子どもの最初の生産物であり、自分が思うように支配できる物である。母親に対抗するのにウンコを投げつけるのも、逆に母親に気に入られようとちゃんとトイレでウンコをするようになるのも、物としてのウンコが彼の支配のなかにあることを示している」と、興味深い話を紹介してくれました。そこで、トゥルニエのなかに「私は島の排泄物になった」という記述は、主体としての彼が島という他者から切り離された、という意味で
トゥルニエは書いているのか、それとも…と、質問が出ました。

 別の受講生は、「主体と他者を区分けする考え方はいかがなものか」と疑問を呈し、ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』(岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局1987.10)に、『フライデーあるいは太平洋の冥界』が取り上げられていることを紹介してくれました。ドゥルーズは、他者は自己の可能性の未来を代表しており、他者の不在によって「永遠のいま」に人は投げ込まれるのであって、ロビンソンは「非人間化」して島の部分であり全体となった、と解説しています(『意味の論理学』pp.386-388)。

 もう一人の受講生が紹介してくれた『豊かな社会の病理学』(大平健著、岩波文庫、1990.6)には、モノを通じてしか他者を語れない人々のことが書かれています。「燦然と輝くモノが溢れる現代、軽い精神的不調を訴えて精神科を訪れる患者の中に、人間関係の葛藤を、モノとの関係に巧みに置き換えている人たちがいる。ブランド品にアイデンティティを求め、マネキンのような恋人に囲まれ、人の心を味わうために高価な料理を食べにいく。豊かな社会特有の描像を描き、それを生む日本の社会を考察する」と、表紙裏に謳われている本書は15年も前に書かれたものですが、著者の大平は、このような人々を「モノ語りの人々」と名づけています。たとえば、人の表現が苦手なあるOLは、持ちモノのことを尋ねると途端に雄弁になります。

 「そのオバサン、若ぶっちゃって、LLビーンのトートバックか何かで会社に来るんですよ。靴もオイルド・モカシンで会社でパンプスに履きかえるの。なに気どってんのって皆で笑ってますよ。若い娘のまねしてリーボックならまだ可愛いですけどね。私はあんたたちより格が上だって態度がイヤ。単なるオバサンなのにね」(p.9)

 LLビーンはアメリカのアウトドア―・グッズのメーカー。モカシンは、底が平らで靴ひも部分にひらひらのついたおシャレな活動靴。パンプスは、OLや就活学生が履いているかかとのある靴で、かかとが高くなればハイヒールになります。リーボックはもちろん運動靴。さてみなさん、このOLはいくつぐらいで、オバサンとからかわれている人はいくつぐらいだと思いますか。でも、よく考えてみれば、「いい年して、あのピンクのシャツはないよね」など、他者を外見の装いで表現するのは程度の差こそあれ、私たちの日常性そのものではないでしょうか。

 脚本家・倉本聰の考え方に共鳴したある受講生は、「物が壊れにくくなって、私たちは物との距離を失っているのではないか。物は壊れるものだという感覚で、物と付き合うことが大事なのではないか」と、指摘してくれました。「物は壊れるものだ」というこの奥深い洞察が、まさに東日本大震災による原発建屋の崩壊によって、見事に証明されたのではないでしょうか。「原発の安全神話」を突き崩したこの一大事件は、「文明の危うさ」をロビンソンに目覚めさせた火薬類の大爆発に通じるものです。

 現代は、「人」「モノ」に加えて「情報」までが他者として私たちの前に立ちはだかっています。現実と非現実の境界があいまいとなり、ときに怪しい情報によって「炎上」させられることまであるのです。モノや情報に執着して社会性を欠いた「オタク族」は、「モノや情報」という他者と一体化し、それらに拘束されている人たち、と言えるかも知れません。

 「物との一体化」によって自由を得たロビンソンとは真逆なことが現代では起きています。物との対応における何がその違いを生み出しているのでしょうか。川の流れの水のように、アクリルと同化しながら絵筆を扱う画家の受講生のエピソードが、モノや情報とのあるべき関係を示唆しているような気がします。

 「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」―吉田松陰の箴言が、物や情報にまで及ぶのは何とも楽しいことではないでしょうか。