1,私は一個のデカダンである

 皆さん、NHKの朝の連続ドラマ「ちむどんどん」をご覧になっている方も多いと思います。その場面で、ニーチェの言葉が引用されていたことを覚えているでしょうか。沖縄から出てきた主人公が就職したイタリアレストランのオーナーが、彼女の旅立ちを記念する場で、はなむけの言葉としてニーチェの次のような言葉をあげています。

「自分の立つところを、どこまでも深く掘り続けなさい」
 さて、この言葉がニーチェのどの書物に出ているのか、寡聞にして知りませんが、朝ドラにまで登場するニーチェの現代性・普遍性を良く表していると思います。

 本日のテーマ「私は一個のデカダンである」は、「なぜ私はかくも賢明なのか」の二の冒頭にある言葉です(p.19)。デカダンはフランス語のdecadentから取った言葉で、「反権威主義」「反道徳主義」「悪魔主義」「病的主義」など、既成概念の打破を込めた芸術運動に込められた言葉です。

 ニーチェは19世紀末の欧州を覆っていたデカダンの雰囲気の中で、あえて自己を「デカダン」と呼びながら、その克服を目指して「超人思想」を掲げました。
新型コロナとの戦い、気候変動やウクライナへのロシアの侵攻など、現代にはさまざまな問題が渦巻いています。個人の力では、もはや如何ともしがたい状況が生まれる中で、私たちの心の中には、「デカダン」の不気味な影が忍び寄せているのではないでしょうか。

 ニーチェは『この人を見よ』(西尾幹二訳、新潮文庫)の序言冒頭で「私の予測では、近いうちに、私はかつて人類に課せられた要求の中でも最も困難な要求を人類に突きつけなければならなくなる」(p.3)と宣言し、「私が誰であるのかを言っておくことが必要であるように思われる」(同)、と同書執筆の動機を述べています。そしてサブタイトルに「人はいかにして自分自身になるか」(p.13)と書き込んでいます。

 「かつて人類に課せられた困難な要求のなかでも最も困難な要求」を、この講座では、気候変動に象徴される危機からの「人類救出」の要求ととらえ、皆さんとご一緒に、ニーチェの『この人を見よ』を読み進みながら、忍び寄る「デカダン」の影を一掃するヒントを見つけ出してゆきたいのです。

 「そうではなくて、こっちじゃないか、それならこれではないか」の「弁証法」の創始者とニーチェが見なすソクラテスをデカダンの始まりであるとするp.17の「なぜ私はかくも賢明なのか一」、「見えない処を見る」といった特技によりデカダンスの問題にかけてはベテランである、とするp.18「同」、慣れた生活環境から敢えて離脱して絶対の孤独へと入って行こうとするデカダンの証拠である私のあのエネルギー「なぜ私はかくも賢明なのか二」(p.19)など、いたるところで、ニーチェは、デカダンと自身との関係を、実にわかりやすく述べ立てています。

 本日はまず、「退廃的」「虚無的」「自堕落」など、多彩な意味を持っているデカダン一覧表から、皆さんの感じる現代の雰囲気に〇を付けてもらうことから始めたいと思います。