10、ダ・ヴィンチにおける「可能性 」の問題

 前回は、お一人が、ルネサンスのイタリアが「金余りの状態にあった」ことを示してくれました。またお一人が、ダ・ヴィンチが描き出したのは「一瞬の中に凝縮された存在そのもの」との見事な見解を披露してくれましたし。「死を考えることは、生を考えることにほかならず、生を考えることは父母、さらには受胎した卵子、それ以前の生命のつながり、そして宇宙の始まりまでをも考えること」と、素晴らしい炯眼を示してくれた方もおりました。
 
 こうして、私たちは、レオナルド・ダ・ヴィンチを通して、科学・芸術そして哲学の深奥へと旅を続けてきたのでした。

 閑話休題として、美術史家の若桑みどりが読み取った『モナ・リザ』の深層についてちょっと紹介しておきましょう。『モナ・リザ』論でいちばん賑やかなのが「あれは自分自身の肖像画」「母親がモデル」「お腹にキリストを身ごもっているマグダラのマリア」といった描かれている女性の正体をめぐるものですが、若桑はそんなモデル論議から離れて、ダ・ヴィンチはこの絵で何を描こうとしたのかに探りをいれます。結論から言えば、この絵は「地球の終末」を描いたものだと言うのです(若桑みどり『イメージを読む』ちくま学芸文庫、pp.148-152)

 さて、ヴァレリーはこう書いています。

「個人の最も真なるもの、最も<その人そのもの>なるものは、その<可能性としてあるもの>であるーこれをその人間の歴史から引き出さんとしてもそれは不確かなばかりである。その身に起こってくることで自分でも知らないことは、その人の歴史からは出て来ないわけである。一度も叩いたことのない鐘は、その鐘のもつ本音は出さぬわけである。
 だから私の試みも史上のレオナルドというよりもむしろ<レオナルドなる人の可能性としてあるもの>を私流に考え、描くということだった」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』p.88-89 上段の注記)

 レオナルドが作り出そうとした飛行機からロボットにいたるさまざまな存在は、すでに高度に現実のものになっています。いまや私たちはAIの助けによって、レオナルドが夢見た「無限」を創造する段階にまで来ているのかもしれません。ヴァレリーの言に従って「私流のダ・ヴィンチの可能性」を考えてみませんか。

 ミラノ公国のイル・モーロ主催による甥の結婚式で披露された「天国」と題する催しの監督・演出は、ダ・ヴィンチによるものです。イタリア放送協会作の『ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯』から、この時の再現風景を見てみましょう。

 どうです、こんなこともダ・ヴィンチはやったのです。私はダ・ヴィンチが現代に蘇ったら、モーツァルトのオペラの演出を頼みたいと思っています。「魔術師の異名をとるダ・ヴィンチなら、『魔笛』の舞台をどのように仕上げるだろう」「ダ・ヴィンチだったら、地獄に落ちるドン・ジョヴァンニを、どう表現するだろう」。想像するだけでも楽しくなってきます。あなたなら、何をダ・ヴィンチにしてもらいたいですか。

 この講座を終えるにあたって、皆さんが語ってくれた、ダ・ヴィンチによせる素晴らしい言葉を紹介しましょう。

「彼が求めたのは究理。彼の理を絵にするとシュールになる」
「私たちの一瞬、一瞬にダ・ヴィンチがいる」
「もしダ・ヴィンチが現代にいたら、私の絵を描いてほしい。ジネブラ・ベンチの肖像の話を聞いて、ダ・ヴィンチはその人の本質を見抜いて描いたのだと思う。ダ・ヴィンチによって、私自身が知らない私を見せてくれるのではないか」
「ダ・ヴィンチのニ本の腕の素描が残っている。これは凄いと思う。ただ、デッサン力はミケランジェロの方が上だと思う」
「もし、ダ・ヴィンチが現代に現れたら、1にタイムマシン、2に核融合、3に会議場で仏顔だった国会議員たちが、車に乗り込んだとたんに般若に変わるその瞬間を描いて欲しい」